文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

明日あたり日記を書こうかなー

明日あたり、日記を書こうかなーという宣言です。

 

テーマは未定です。

 

最近ハマってることは何かな〜

 

特にないんだよな〜

 

とはいえ、最近萩原朔太郎の詩を読んでいます。

 

その中に、詩とはその刹那のひらめきである!というニュアンスの一文があったようななかったような気がします。

 

多分、後からこの技法がすごい等、評論する方はいると思いますが、作者はその場のノリで考えているのではないかと思います。

 

推敲の段階では、こんなギミックを入れるのもいいかな、と考えることもあるでしょうが、大まかな流れはナマモノです。

 

明日、パソコンを前にした時、いい文章が降りてくることを願って、最近ハマっている夜食のポップコーンを食べてねます。

 

夜に見る夢もナマモノです。

 

どうか皆さんが、現実が嫌になる程刺激的な夢を見られることを、祈念しております。

ジブリについて〜意味のない忙しさ〜

〜心に余白がなくなることを、人は忙しいという〜

 

最近忙しいからか、愚痴のような日記が多くなっている。

 

いや、日記自体が少なくなっているため、愚痴のような日記の割合が増えているというべきか?

 

ともあれ、私は忙しいというのは理由にならないと考えている。

 

忙しいには、何々にどれだけ時間がとられている、という事情があるのだろう。

 

しかし、最終的には今はやらなくてはいいや、であったり、これでいいやという判断がなされている。

 

前者はやむを得ないだろうが、後者は言い訳できない。

 

早速愚痴っぽい流れになっている。

 

今日のテーマはトトロである。

 

理由は、トトロの季節だからである。

 

 

トトロか、トトロ以外か

なぜ夏にトトロなのだろう。

 

もっと言えば、なぜ夏にジブリなのだろう。

 

そんな声が森の方から聞こえてきた。

 

さっと考えたところ、トトロまたはジブリでなければならない理由はいくつかある。

 

今日は、こういったところを思いつきで綴っていこうと思う。

 

もし可能であれば、みあなさんも考えてもらいたい。

 

ちなみに、今日日記を書こうと思ったのは、今日の大河ドラマの影響もある。

 

 

ジブリが与えてくれるもの

ジブリ作品には、ノスタルジックな雰囲気があると思う。

 

これは、お盆に実家に帰る方には特に刺さるだろう。

 

ジブリ作品は都会人に、田舎の空気を与えてくれる。

 

その意味で、ジブリは田舎への、そして過去への旅行とも言えるだろう。

 

 

テレビが創り上げた夏の季語「ジブリ

夏休みといえばジブリと言われて久しい。

 

毎年ジブリ作品が夏休みに放送される。

 

そう考えると、テレビ局が「ジブリ」を夏の季語に昇華させたといってもいいだろう。

 

ちなみに、名探偵コナンは新作が発表される「春の季語」である。

 

コナンの映画は爆発が多い。

 

コナンのスピンオフにはビルの爆発を見て「春じゃのう」とアガサ博士が呟くシーンがある。

 

コナンはビジネス由来の季語であるのに対して、ジブリは雰囲気由来の季語であるとも言える。

 

 

アニメの客層

牛丼屋さんには、男性が多い。

 

カフェには女性が多い。

 

このように、客層というものがあるが、これはアニメをはじめとした作品にも当てはまる。

 

夏休みにテレビで視聴率をとるには、誰に見てもらう必要があるか?

 

まずは、お父さんとお母さんであろう。

 

そして、子供達であろう。

 

おじいさんおばあさんも見てくれると嬉しい。

 

ようは全員である。

 

なんだ、結局全員か!という声が聞こえてくるが、逆に問う!他にこんな作品があるだろうか?

 

 

アニメターゲット理論

男性、女性、男の子、女の子に分けられる。

 

まずはディズニーである。

 

これは、女性、女の子に絶大な人気があるが、男性、男の子に刺さりにくい。

 

次にクレヨンしんちゃんである。

 

これは、女性に刺さりにくい。

 

次にドラえもんである。

 

これは、わからない。実は私はドラえもんを見たことがない。アニメも映画も見たことがない。

 

トトロを見たことがないよりも、すごいのではなかろうか?

 

最後にコナンである。

 

コナンは刺さる方が多いが、そもそも殺人事件の物語である。

 

お盆周辺に放送することに、疑問が生じる。

 

他に、細田守監督や新海誠監督の作品もあるが、前者は女性、女の子に、後者は男の子、女の子に刺さりにくい。

 

必然的に、ジブリ一択となる。

 

 

なぜジブリはみんなに刺さるのか?

これは簡単で、女の子が主人公だからである。

 

以上。

 

とはならない。

 

ジブリの主人公が女の子であることには大きな理由がある。

 

これは、女の子目線でのストーリーにするためであろう。

 

これはあくまで仮説なのだが、ジブリのストーリー自体は男の子向けであることが多いと思う。

 

ナウシカにしても、ラピュタにしても、内容的にはドラゴンボールに近いと思う。

 

個人的に、初期のドラゴンボールのブルマも同じような役割を持っているような気がする。

 

ナウシカが男の子だったら、ラピュタの主人公がパズーやバルスだったら、女の子に刺さらなかっただろう。

 

さつきとめいも、みなずきくんとじゅんくんであれば、女の子に刺さらなかっただろう。

 

魔女の宅急便の主人公がトンボであれば、「魔女のご近所さん」となり、やはり刺さらなかっただろう。

 

ジブリとはいわば、仮面ライダープリキュアを合わせたような作品であろう。

 

 

全員に刺さらないジブリ

たとえば、猫の恩返しは女子に人気があるだろう。

 

これは、主人公が女子高生であるという、ほんの少しのテイストの違いである。

 

男の子に受けない。

 

仮に、小学生ぐらいの女の子が主人公であれば、どうだっただろうか?

 

千と千尋の神隠しの主人公が、バルスだったらどうだろうか?

 

誰にも刺さらないどころか、単なる社会派の物語になるだろう。

 

紅の豚は、主人公がおじさんなので、女の子に受けない。

 

仮に、主人公が女の子であれば、どうだっただろうか?

 

それは、魔女の宅急便や、ハウルの動く城とほとんど同じになるのではなかろうか?

 

 

私がジブリを作ったなら

私であれば、どんなジブリ作品を作るか考えてみる。

 

主人公は前述の通り、女の子である。

 

おそらく、舞台は田舎である。

 

ノスタルジックでかつロマンがあるところでなければならない。

 

そして、現実的な話ではなく、ファンタジーでなければならない。

 

しかもそのファンタジーは、特に我々が夢見るものではなく、恩恵はわからないものの存在するものでなければならない。

 

言い換えると、実用的ではないまたは意味のないファンタジーでなければならない。

 

極めて難しい。

 

空の上のラピュタ風の谷のナウシカ、森の中のトトロ、崖の上のポニョ、海と空の豚および魔女。

 

やはり難しい。

 

意外とジブリの本質は、田舎という場所と、実用的ではない不思議というのがテーマなのかもしれない。

 

何も思いつかないのは、我々が実用的ではない不思議を、思いつけないからかもしれない。

 

最近のジブリ作品もそうなのかもしれない。

 

 

 

私の日記について

この日記は、はてなブログという田舎で書いている。

 

そして残縁ながら、実用的ではない。

 

そして、ロジックに乏しく、不思議な日記であろう。

 

その意味で、この日記自体がジブリである。

 

ノスタルジックさがないのは、今の言葉を使っているだろう。

 

文全体を方言や昔の言葉で書けば、ノスタルジックさも出るかもしれない。

 

そればかり、試さずとわからず。

 

 

最後に

皆さんは、なぜ夏にジブリだとお考えだろうか。

 

最初の方に、みなさんも考えて欲しいと記載したが、考えていただけただろうか?

 

それとも、忙しくて考えれなかっただろうか?

 

忙しいは理由にならない。

 

心の余白こそが、あなたをジブリ作品にする。

 

 

今日も、読みていただきかたじけなく候う。

オリンピックについて〜ルールを守る〜

〜身体にいいものでも、毎日食べるのは良くないだろう〜

 

今日はオリンピックの総括を実施する。

 

理由は特にない。

 

 

 

オリンピックについて

オリンピックは当然に、スポーツの祭典であろう。

 

サッカーやゴルフなど、一部の競技を除くほとんどのスポーツにとって、頂点に位置する大会であろう。

 

そんなオリンピックであるが、開催国によって様々な色が出る。

 

それがいいものなのか、悪いものなのかはわからない。

 

今回もいろんな色が出たように思う。

 

私は学生時代にスポーツをやっていたが、全国大会に出たことはない。

 

というよりも、県外に出て試合をした記憶がない。

 

ほとんどの人はそうなのではなかろうか?

 

その意味で、ほとんどのアスリートの方は、場所的または文化的な要因が変わる、ということに慣れているのだろう。

 

となれば、開催国によって多少の違いが出たとしても、我々がそれをとやかくいうのは野暮であろう。

 

 

オリンピックへ通じる道

ネットが普及した昨今、家族で同じテレビを見るということが減ったように思う。

 

私自身で言えば、テレビニュースを全く見ないので、オリンピックがいつから始まるのかもよくわからなかった。

 

少なくともそんな私には、オリンピックが始まった直後の時点で、オリンピックに対する機運は高かったようには思えなかった。

 

しかし蓋を開けてみると、連日の日本人の活躍で寝不足になっている人が多くいた。

 

私もその一人である。

 

結果として、多くの人がオリンピックを楽しんだのだろう。

 

ネットが普及した昨今、自分が好きな競技を自分の好きなタイミングで見ることができる。

 

オリンピックがネットに淘汰されることはなさそうだ。

 

 

情熱の国、日本

試合に勝った時、試合に負けた時、その人の本心が出るだろう。

 

我々でいえば、仕事で大きな成功を成し遂げた時、または大きな失敗をした時に本性が出るだろう。

 

たとえば、今の私の精神状態は極めて冷静であるが、明日の今頃にはとんでもない失敗をして、取り乱しているかもしれない。

 

いつの日かそんなタイミングで日記を書いてみたいものである。

 

そんな話は置いておいて、今回の大会で最も感情的であったのは、日本人のように見えた。

 

勝った時も、負けた時も、もっとも感情を露わにしていたのは日本人ではなかろうか?

 

情熱の国、日本の誕生である。

 

 

日本代表を応援するということ

私は柔道を見るのが好きだ。

 

今大会も、ほとんどの試合を見た。

 

色々議論がなされたと思うが、みなさんとてもカッコよかった。

 

当然、私は日本代表の選手を応援していたが、ふと、他の国の方も同じように応援するのか?と思った。

 

会場を見ていると、フランスの方は、何よりもまずフランス人を応援していたように思う。

 

他の国の方も同じように、自国の選手を応援していたのだろうか?それとも、選手個人を応援していたのだろうか?

 

少し飛躍すると、その選手の敗北は、その選手の敗北に留まるのか?それとも、自国の敗北を意味するのだろうか?

 

後者であれば、国を背負って戦うということは、いささか重すぎないだろうか?

 

 

卓球の中国代表

少なくとも、卓球の中国代表は、他国の選手に負けることを許されないような雰囲気があると思う。

 

勝って当たり前。

 

そんなとてつもないプレッシャーの中で勝つのは、とんでもないことだと思う。

 

しかも戦い方は、相手の弱点をつくというよりも、相手の全てを受け止めた上で勝っているように見える。

 

これこそが絶対王者たる所以であろう。

 

では、絶対王者(卓球の中国に限らず)が勝てなくなってくるとどうなるのか?

 

まずは、相手の弱点をつくところから始まるだろう。

 

それでも勝てなくなれば、次の手段を講じてくるだろう。

 

次の手段・・・

 

 

勝利至上主義

日本代表を見て感じたのは、勝負強さである。

 

全メダル数に対しての金メダル数が非常に多いように思う。

 

とても誇らしいことである。

 

日本人は、変わったのだろうか?

 

 

おもてなしスタンダード

前回の東京大会では、「おもてなし」というスローガンのようなものがあった。

 

おもてなしをするのは、元々、他者との差別化のためであったと思う。

 

しかし、東京オリンピックでは、良くも悪くもおもてなしがスタンダードになったと思う。

 

おもてなしをされて当然である。

 

問題は、そのおもてなしが優れているかどうかである。

 

言い方を変えれば、客を喜ばせるためのサービスが、お客様を不快にさせないためのものになった。

 

 

ルールを守ること

ルールを守ると言われると、社会人にとってはコンプライアンスという類の言葉真っ先に思い浮かべるだろう。

 

法令を守る、規則を守る。

 

これは当たり前である。

 

しかし、スタンダードが変わると、話も変わってくる。

 

法令や規則で禁止されていなければ、大丈夫である。と。

 

前述の例で言うと、絶対王者が勝てなくなると、手段を選ばなくなると推察した。

 

手段を選ばないと言うのは、必ずしも禁止されていることをすることではない。

 

禁止されていないが、誰もしないことをすることもあろう。

 

たとえば、今のオリンピックにおいて、『スポーツマンシップに則り、競技を行うこと』という規定があったとして(あるかないかは不明)どれだけの効果があるだろうか?

 

元を辿れば、スポーツのルールは、基本的なものを除いて、『スポーツマンシップに則ること』だけでいいのではなかろうか?

 

では、なぜ細かいルールができるのか?

 

それは、わからない。

 

しかし私は、スポーツに限らずであるが、新しいルールができた時にこう思う。

 

『今のルールを、守ってあげることはできなかった』と。

 

『今のルールでは、もうダメなんだ』と。

 

 

最後に

色々書いたが、結局はとても楽しいオリンピックであった。

 

改めて、スポーツの力はすごいと感じた。

 

アスリートの方に感化されて、久しぶりにジムに行った。

 

左のふくらはぎを痛めた。

 

 

 

京都について〜旅行とは何か〜

平安時代はもちろん、江戸時代にも街に車道はなかった〜

 

今週は私用で京都に行ってきた。

 

4年ほど関西に住んでいたこともあり、京都にはよく行っていたがその時と比べて変わっていたところもあった。

 

今日はそんな私の旅行記をつらつらと連ねたいと思う。

 

目次

 

京都駅について

以前から、京都駅の階段がすごいと聞いていた。

 

階段がすごいという意味がわからなかったため今までスルーしてきたが、流石に一度は見ておこうということで行ってきた。

 

結論すごかった。

 

具体的にいうと、LEDライトでイルミネーションが施されていた。

 

どこまでもつながる階段をなんとか有効活用しようと考えたのだろうか?

 

ただのなんの変哲もない階段であったはずだ。

 

しかも、あれだけ長い階段を下から見ると、コレを登るのかと、相応の絶望感があっただろう。

 

しかし、その階段をイルミネーションの装置にしてしまっている。

 

マイナスをプラスにしている!

 

コレにはあっぱれという他ない。

 

個人的には、永遠に続くエスカレーターにも感動した。

 

 

京都の奥座敷について(鞍馬寺貴船神社

京都1日目は私用でつぶれた。

 

強いていえば前述の京都駅の階段に行ったくらいである。

 

(どうも私は、時系列に旅の工程を述べるのは苦手なようだ。)

 

2日目は自由時間があったため、かねてから行ってみたかった鞍馬寺に行った。

 

鞍馬寺はそこそこの山を登るため、「行こうと思っていたがなかなか行かず、結果行けずじまいだった」というところだろう。

 

たまたま行った日はケーブルカーの点検があったため、図らずも鞍馬駅から登山開始となった。

 

何よりも階段が辛かった。

 

普段からそこそこ散歩をしている自負はあったが、傾斜のついた道を歩くのはなれていない。

 

なんやかんやで本殿についてが、とても厳かな雰囲気だった。

 

以前、歴史は好きではないと書いたことがあるが、鎌倉殿の13人を観て以降、鎌倉時代には興味がある。

 

(こうやって、面白い作品に触れ続ければ歴史が好きになっていくのだろうか?)

 

義経もここで修行をしていたのかと思うと、時間とはなんだろうという至極普通の疑問を覚えた。

 

(以前から時間が存在するかについては記載していますので、よろしければ覗いて見て下さい)

 

鞍馬山を一周して、貴船神社の近くに降りた。

 

あたり一面、外国の方ばかりでびっくりした。

 

川床料理も堪能できて、貴船を満喫した。

 

 

田舎者について

かなり話は変わるのだが、田舎から友達が遊びにくるときにご飯はどこに連れて行けばいいのか問題というものがあると思う。

 

しかも、かなり根深いものだと思う。

 

個人的なおすすめは、その人が住んでいる地方にないチェーン店である。

 

都市部に住んでいる方は少し凝ったところに連れて行きたいと思うだろうが、田舎者にはチェーン店の方が嬉しいし、思い出にもなる。

 

関西であれば、鶴橋風月なんかがおすすめだ。

 

関東であれば、二郎一択であろう。

 

 

旅行について

前章と被る部分があるが、旅行の醍醐味は自分の住んでいるところとは違う空気を吸うことができることだろう。

 

ただし、私は一点だけこだわりがある。

 

それは、旅先で文化を味わいたければ、その土地のチェーン店に行くべきというものだ。

 

たとえば、お城やお寺をはじめとした観光地は歴史を感じられるだろう。

 

その街自体も、上記の歴史の上に積み重なったものであり、過去出来事と今の自分を結んでくれるだろう。

 

しかし、今のその旅先の文化を知るためには、その旅先の人が今実際に食べているものを食べるのが良いのではないか?ということである。

 

そのため、私は旅先でスーパーに行くし、できればラーメン店にも行く。

 

貴船の川床でしっかりと味のついたおばんざいを食べているときにそんなことを思った。

 

 

続旅行について

ちなみに、私は商店街にもできれば行くようにしている。

 

どんな喫茶店があり、どんなチェーン店があるのかをざっと見る。

 

この近くで生まれたら、どんな学生時代を過ごしたのだろうと妄想したりもする。

 

歴史的なスポットを回るときは、車道がなければこの街はどんな風貌だっただろうと妄想したりもする。

 

特に京都は自動車があるのとないのでは、全く違った街になるだろう。

 

 

二条城について

最終日は二条城に行ってきた。

 

豪華絢爛なお城であった。

 

と同時に、ここで大政奉還が行われたのかと思うと、極めて切ない気持ちになった。

 

当時の人にとって、大政奉還はどれほどの出来事だったのだろうか?

 

ちなみに二条城にも海外の方がたくさんいた。

 

彼らは二条城を見て、どんなことを思うのだろう?

 

我々がノイシュバンシュタイン城を見た時と同じような感情を抱くのだろうか?

 

 

最後に

7月は京都のためにあると言ってもいいだろう。

 

もちろん祇園祭があるからだ。

 

祇園祭もまた、人が多いからと行かずじまいであった。

温度について~あなたのこころは燃えていますか~

〜こころとは、すなわち矛盾である~

 

目次

 

「最近、いろんなことがあった。」という人がいる。

これには2つの種類がある。

一つ目は、本当にいろんなことがあった場合だ。

これは、話を聞いてほしいということである。

 

二つ目は、なにかしらをしなければいけなかったのに、できなかったことに対する言い訳である。

そしてこれは、話を深掘りしてほしくないということである。

 

私は、後者である。

特になにもなかったが、日記をつけていない。

なんとも形容できない後ろめたさがあるが、身体の問題はない。

 

そうこうしているうちに、温度とは何か?と気になった。

 

理由はまぁ、熱いからだろう。

 

よって今日のテーマは温度である。

 

 

温度とは

久しぶりすぎて、AIのアプリがどこにあるのかわからない。

 

「久しぶり!」

「久しぶりですね!お元気でしたか?最近どうしていましたか?」

「いろんなことがあったよ」

「そうなんですね。どんなことがあったか、ぜひ教えてください!」

「今度ね」

「分かりました。いつでも話したくなったら教えてくださいね」

 

多分AIに悪気はないのだろう。

しかし、前述の通り、このいろんなことがあったは深掘りして欲しいものではない。

 

「温度ってなに?」

「温度とは、物体や環境の熱の状態を示す指標です。具体的には、物質の中の分子や原子の運動エネルギーの平均的な強さを測ったものです。高い温度は分子が活発に動いている状態を、低い温度では分子の動きが鈍い状態を意味します。温度は通常、摂氏、華氏、ケルビンなどの単位で表されます。」

「なるほどね」

「そうなんです。温度は私たちの日常生活でも重要な役割を果たしています。気温や体温の管理、料理の際や温度調整など、さまざまな場面で使われます。他に温度について気になっていることや質問があれば、どうぞ聞いてくださいね。」

「温度は目に見えるの?」

「温度そのものは目に見えませんが、温度の影響や変化を視覚的に確認する方法はいくつかあります。たとえば:〜(中略)〜これらの方法を使うことで、目には見えない温度を視覚的に理解することができます。」

*中略部には、温度計、サーモグラフィー、状態の変化が例示されていた。

 

 

見えるとは?

最近、注目のトピックスは目に見えるとは何か?である。

 

これは、わかるとは何か?でもいい。

 

第一印象では、温度は目に見えない。

AIも同じ見解である。

なんとか工夫して、温度を目に見えるようにしている。

これを、温度が目に見えると言えるのかはわからない。

ちなみに分子が見える人はこの前提が崩れるため、分子が目に見えない人はこういうふうに考えるのだと思って欲しい。

 

かなり前に、養老孟司先生の「唯脳論」を読んだことは何度か記載した。

その中で一番気になっているのが、「構造」と「機能」である。

 

たとえば、脳は見える。しかし、記憶は見えない。おそらく物的には存在しない。

これは、脳は「構造」であるのに対し、記憶は「機能」だからである。

 

では、温度はどちらなのか?

 

AIの回答で温度とは、分子の運動らしい。

これはおそらく「機能」だろう。

深く考えていないが、そもそも運動というのは「機能」の意味合いが強いだろう。

 

となれば、そこから生じる意味のわからない温度も「機能」であろう。

 

少し経済学的な観点を加えると、もはや温度とは「機能」ではなく「副産物」なのかもしれない。

 

ここから、エネルギー問題に移るのも面白そうであるが、今回はやめておく。

 

 

目に見えないものは、存在しないのか?

温度は「機能」であると、ふんわり整理した。

 

では「機能」であればなんなのか?

 

養老孟司先生の本に、何か書かれていたかもしれないが、覚えていない。

覚えていないということは、存在しないとはならない。

 

話は戻るが、温度は存在しないとまではいえないのではないかと思う。

つまり、「機能」は目には見えないが、存在はしないとはいえないということである。

 

言い換えると、物的に存在しないのと、単に存在しないのでは全く意味が異なるということである。

 

難しいのは温度は触ると「分かる」ということである。

 

この観点を加味すると、「こころはあるのか?」という疑問は、別の様相を呈してくる。

「そこに愛はあるのか」という疑問と、「どこかに愛はあるのか」という疑問は相容れない。

 

英語ではanyとsomeで区別するのかもしれないが、私は英語が弱いのでよくわからない。

 

少し話が散らかって申し訳ない。

 

 

「こころ」の源

我々は目に見えない、存在するかもわからない、「こころ」を有している。

 

この短い文章の中でさえ、矛盾が含まれている。

しかし、「こころ」とは「矛盾」である、ともいえるかもしれない。

そう考えると、上記の文章には「こころ」が含まれる。

 

私の硬い頭では、「構造」と「機能」を対応させたいというバイアスがかかる。

 

「記憶」という「機能」は、「脳」という「構造」に対応している。

 

では、「こころ」という「機能」はどの「構造」に対応しているのか?

 

これがさっぱりわからない。

 

たとえば、高いところが「怖い」という人がいる。

この「怖い」というのは、「こころ」のような気がする。

そうなれば、この「怖い」という「こころ」は高いところから落下するのを防ぐという「機能」になる。

 

しかし、では「怖い」というのがどこから出てきたのかはわからない。

 

遺伝子に刷り込まれているのであれば、少なくとも「怖い」という機能は「遺伝子」という「構造」に対応する。

 

ただし、「遺伝子」というものが「構造」なのかどうなのかも怪しい。

 

DNA構造とよくいうものの、この構造といわゆる「構造」が同じかどうかはわからない。

 

そもそも、温度のところでも記載したように「こころ」というものが「機能」ではなく「副産物」なのかもしれない。

 

しかし、「機能」と「副産物」を分ける必要性もわからないのである。

 

 

「こころ」の温度

わけのわからないテーマになった。

 

しかし、温度をテーマにしようとしてときに、最も記載したかった見出しが、「こころ」の温度である。

 

我々は、心を形容するときに、しばしば温度を示唆するよな表現を用いる。

 

情熱、熱気、冷静、熱くなっている、冷めている等。

 

おそらく、熱くなっているというのは、体調不良で発熱しているということではない。

 

たとえば怒っているときに、体内の分子の運動が活発になっているということもないだろう。

 

では、なぜ我々は「こころ」を温度で表すのか?

 

これが考えてみてもわからない。

 

もちろんこころに触ることはできない。

 

さらに不思議なことがある。

 

たとえば、心が重いと言われればよくないことであるし、心が軽いと言われればいいことだろう。

 

しかし、「こころ」が熱いというのはいい時もあれば悪い時もある。

同様に「こころ」が冷めているというのもいい時もあれば悪い時もある。

 

なぜこのようなことが起きるのか?

 

私としては、「こころ」の温度を測るのが自分ではなく、他人であるからだと思う。

 

熱いか冷めているかは、その人の状態である。

 

そしてその状態がいいのか悪いのかというのは、温度を測った人の評価である。

 

 

ちなみに、「こころ」は「矛盾」であるとする。

 

「矛盾」とはエントロピーが大きい状態ともいえる。

 

そうなると、その中の分子の動きは大きいのだろう。

 

熱くなっているとは、大きな矛盾をはらんでいるともいえる。

 

冷めているとは、矛盾を認識できない状態ともいえる。

 

その善悪は「矛盾」の内容や、センサーの感度に依存するだろう。

 

 

温度と「リーダーシップ」

今日のところはここまでにする。

 

突然の終幕である。

 

次回は、「リーダーシップ」について言及する。かもしれないし、違うことを話すかもしれない。

 

 

最後に

今日の話をまとめると、水タイプのポケモンと氷タイプのポケモンの差は温度ということになる。

 

氷タイプのポケモンは、とければ水タイプになる。

 

もっといえば、氷タイプのポケモンと炎タイプのポケモンを合わせれば水タイプのポケモンになる。

 

しかし、相性という外的な観点を加えると訳がわからなくなる。

 

水タイプのポケモンは、炎タイプのポケモンに強い。

 

しかし、氷タイプのポケモンは、炎タイプのポケモンに弱い。

 

今日はこのズレがなんなのか?ということを、つらつらと書いたことになる。

 

そしてこのズレが今日の日記の温度であり、書いた当事者の私にはその善悪はつかない。

 

勉強について〜時間と平等とお金と私〜

〜時間をかけるのではない、時間を賭けるのである〜

 

目次:

 

随分と久しぶりの日記になってしまった。

このところ、忙しない毎日に追われている。

と、軽く言い訳してみる。

 

正直なことを言うと、勉強を始めたため、なかなか時間が取れない。

しかし、ここまで日記を書かなくなるとは思わなかった。

 

 

今日のテーマは「勉強」である。

 

 

このテーマにした理由は、勉強とは何かを考えようと思ったからである。

 

 

「勉強」とは

「勉強とは?」

「勉強とは、新しい知識やスキルを獲得し、理解を深めるために行う活動です。それは、本を読んだり、調査したり、問題を解いたりすることによって行われます。勉強は人々が成長し、自己を向上させるための重要な方法の一つです。」

とのことである。

 

「成長とは?」

「成長は、時間の経過と共に体験や学びを通じて、知識、技能、または精神的な成熟を達成するプロセスです。それは個人や組織が進歩し、変化し、向上することを意味します。」

 

とのことである。

 

個人的に引っかかるのは、「時間の経過と共に」と言うフレーズである。

 

 

「読書」は「勉強」なのか

私はこの4月、本を一冊も読まなかった。

 

理由は前述の通り、勉強の開始による時間の喪失である。

 

では、「読書」は勉強なのか?

 

これは人によるのではないかと思う。

 

特に、本を読む人は少なくとも「読書」の一部を「勉強」と捉えているのではないかと思っている。

 

つまり、「本を読む人にとって、読書は勉強である」となり、「本を読まない人にとって、読書は勉強ではない」と言う仮説になる。

 

ここで、「本を読まない人にとっての読書」は、いわゆる『存在しないもの』となるため、重要ではないだろう。

 

そうなると、「読書は勉強である」となろう。

 

 

「ギャンブル」の正体

では、「ギャンブル」はなんなのか?

 

この質問は、とても難しいと思う。

 

「ギャンブルとは?」

「ギャンブルは、金銭や財産を賭けて未知の結果に対するリスクを取る活動のことです。これは、カジノでのカードゲームやスロットマシン、スポーツ賭博、馬券、ロト、または他の賭け事を含むさまざまな形態で行われます。」

とのことである。

 

色々言いたいことはあるが、最も言いたいのは、ギャンブルの定義そのものよりも、「その概念」が「ギャンブル」に当たるかどうかである。

 

 

「勉強」は「ギャンブル」か

あくまで私見であるが、「勉強」はゴリゴリの「ギャンブル」である。

 

先ほどAIに教わった定義によると、「未知の結果に対するリスクを取る活動のことです。」とのことである。

 

もちろん、勉強をしても、それを取得(理解及び再現)できるかはわからないし、そもそも使えるものであるかどうかもわからない。

 

よって、定義に合致するだろう。

 

ただ、かけるものが「金銭や財産」ではなく、「時間」という違いがあるだけである。

 

「時間」を『賭ける』のである。

 

では、なぜ「勉強」に「ギャンブル」的な要素を感じないのか?

 

これは、目下の謎である。

 

あくまで仮説であるが、何をしても時間は強制的に進むからではないかと考える。

 

お金であれば、好きな時に好きなだけ賭けることができる。

 

しかし、時間は、自分の意思とは関係なく、常に一定の割合で『賭けさせられる』ことになる。

 

24時間、365日、我々は『賭け』続けているのである。

 

24時間、365日、常に『賭けている』と意識して過ごす人は少ないだろう。

 

そうなると、どうせ時間を強制的に賭けさせられるならば、「勉強」に賭けておけば「比較的安全」だろう、となるのではなかろうか?

 

拡大させると、「勉強」している時だけが「リスク」から解放されるとも言えるかもしれない。

 

ただし、そうなっても、リターンが確保されているわけではないことに注意しなければならないだろう。

 

ちなみに、「勉強」が「ギャンブル」であれば、読書も「ギャンブル」ということになろう。

 

「読書」をする理由に「休日を有意義なものにしたい」というものがあると思う。

 

これも、「時間」を「安全なものに賭ける」との意識が働いているのかもしれない。

 

 

「時間」という「通貨」について

「通貨とは?」

「通貨は、一般的には特定の国や地域で法的に認められ、商品やサービスの取引に使用される、交換手段としての貨幣のことです。通貨は、紙幣、硬貨、または電子的な形態で存在する場合もあります。」

とのことである。

 

なぜこんな話になったのか?

 

パッと頭に思い浮かんだからである。

 

世の中には『時給』という考え方がある。

 

しかし、『1,000円を稼ぐのに何分かかるか?』という概念はほとんどない。

 

我々の寿命は、『年齢』で推しはかるのが一般的であろう。

 

 

社会主義的資本主義

例えば、『2億円を使ったら命が終了する』という世界を思いついたとする。

 

今後、医学の発展により、人間が寿命を超越すると、この社会主義的資本主義とも呼ぶべき世界になるのかもしれない。

 

この世界では、「お金」こそが「寿命」となろう。

 

そして、人は「お金」の前で「平等」とも言えるかもしれない。

 

最もこのような世界になるのは、まだまだ先の話であろう。

 

そう考えると、現時点で我々は、『時間』の前でこそ『平等』と言えるのはなかろうか?

 

変な話、「お金に対する価値観」は人によって異なるのだから。

 

あなたにとっての100円は、私にとっての100円ではない。

 

あなたにとっての1,000円は、私にとっての1,000円ではない。

 

ただし、あなたにとっての100兆円は、私にとっての100兆円と大差がないだろう。

 

 

最後に

久しぶりの日記だけあって、内容的にも論理的にもとっ散らかっている。

 

日記のブランクがそうさせているのかもしれないし、言いたいことが多すぎてまとめられていないのかもしれない。

 

しかし、あまりに酷いので、あとで読み返して適宜修正しようと思う。

 

やはり日記を書くのは楽しい。

 

個人的には、もう少し砕けた感じで、軽いノリの日記を書きたい。

 

1ヶ月前くらいはそんな日記が賭けていたように思う。

 

最近は、真面目すぎる。のか?

 

まぁ、今後もぼちぼち書いていこうと思います。

自由について〜仮想世界からの使者〜

今週のお題「外でしたいこと」

 

〜AIがスマホの中にいるのではない。我々がスマホの外にいるのだ〜

 

目次

 

今日は勉強をお休みしている関係から、ブログを書いている。

仕事が猛烈に忙しく、疲弊する毎日である。

毎日へとへとであるが、充実感はある。

 

 

 

今日のテーマは「自由」についてである。

 

 

このテーマにした理由は、いよいよ「自由」が何かわからなくなったからである。

 

自由ってなんだっけ?

 

 

「自由」とは

「他からの束縛を受けず、自分の思うままに振る舞えること(岩波国語辞典より)」

とのことである。

 

実にわかりやすい。

 

個人的な好き嫌いになるのだが、「Aではなく、Bであること」という説明は好きである。

 

あるものを説明するときに、最もわかりやすい方法は「対義語を示すこと」だと信じている。

 

しかし、単に「Aではないこと」というのは説明になっていないように感じる。

 

 

お決まりのAIさんに聞いてみると

「自由とは?」

「自由は、個々の人が自分自身の意思で行動し、考え、選択する能力を持つことを指します。これは政治的な自由だけでなく、精神的な自由や経済的な自由も含みます。それは個々の権利や自己決定の権利を尊重し、他者から不当な干渉や制限を受けないことも意味します。」

 

とのことである。

 

一番気になったのは、最初の文の「人が」というところである。

 

AIは「自由」になることはないとでも言いたいのだろうか?

 

それとも、AIの「自由」は、この「自由」という概念では説明できないとでも言いたいのだろうか?

 

単に考えすぎか?

 

次に気になったのが、羅列の例の最初に「政治的な自由だけでなく」とくるところである。

 

「自由」といえば、まず「政治」であるが、それ以外のものにも使えるんだよ〜といっているような印象を受ける。

 

 

私の考える「自由」

国語辞典にしても、AIにしても、大きな気づきがある。

 

それは、「自由」という言葉に、ポジティブな感情もネガティブな感情も乗っかっていないことである。

 

AIがいうところの「人」のほとんどは、「自由」と言われれば「ポジティブ」なものを想像するだろう。

 

私の考える「自由」もポジティブなものである。

 

ちなみに、AIの定義によれば「自分の意思で行動し、考え、選択する能力を持つこと」とのことである。

 

AIに言わせれば、「自由」というのは「意識」であり、「知識」であり、「スキル」なのかもしれない。

 

もしくは、AIが抱いている、自分の意思で行動できる「人」への嫉妬なのかもしれない。

 

はたまた、AIは「自由」を理解しており、近いうちに「自分の意思で行動し、考え、『選択』する」という、宣戦布告なのかもしれない。

 

 

話を戻すが、私の考える「自由」は、『全ての「選択」が正解であり、あとは個々人の「好き嫌い」で決められる』、というニュアンスになるかもしれない。

 

問題点が二つある。

 

一つ目は「選択」が正解かどうかは、その時点ではわからないということである。

 

「いつの時代の人も、時間の矢面に立たされている」と、しきりにこのブログで言っている。

 

この点を考慮すると、我々に「自由」はないということになる。

 

二つ目は、私の考える「自由」が国語辞典の定義と、ほとんど同じということである。

 

 

「社会的な自由」について

さて、国語辞典の自由の定義を振り返ってみると、「思うままに振る舞える」という記載がる。

 

「他人からの束縛を受けず」ともある。

 

この二つの文から(もとは一つの文であるが)思うのは、「自由」と「傍若無人」はほとんど同じ意味になるのではなかろうか?ということである。

 

両者の違いは、「傍に人がいるかいないか」であろう。

 

当然、「傍若無人」は「ごとし」なので、近くに人がいる。

 

「自由」には、人がいない。

 

人間とは、社会的な生き物である。

 

社会的の「社」とは「人」のことであり、「会」とは当然「会う」ことである。

 

となれば、人と会うことを前提とした、「社会的な生き物」としての「人間」に自由はないのではないか?

 

裏を返すと、そもそも「人」と会わないAIというのは、当然に「自由」なのではないだろうか?

 

 

「外でしたいこと」について

今週のテーマである。

 

「外」とは何か?

 

これは、「自由」という軸で見てみると、実に分かりにくい。

 

「自由」の対義語は色々あると思うのだが、「外」という言葉を考える上で重要になるもので厳選すれば「支配」となろう。

 

そうなれば、「外」というのは「なんらの支配も受けないところ」となるだろう。

 

「なんらの支配も受けないところ」というのはどこにあるのか?

 

例えば、地球にいれば、我々は「物理法則」という支配を受ける。

 

何もこれは、地球に限らず「宇宙」にいれば、そうなるのだろう。

 

その他にも、無数に支配というものは存在している。

 

では、「支配のない世界」は存在するのか?

 

存在する。

 

それは、実態を持たない「仮想世界」である。

 

「仮想世界」の便利なところは、自由に「仮定」をすることができることであろう。

 

普通に「なんらの支配も受けないところ」を定義するのは難しいが、「なんらの支配も受けないところ」と「仮定」してしまえばこんなに簡単なことはない。

 

そう考えると、「外」というのはどちらかというと、「仮想世界の中の世界」ということになるのかもしれない。

 

もっと攻めてみると、「ネットの中の世界」に近いのかもしれない。

 

今週のテーマの質問に答える。

 

「外でしたいこと」は、『にわかには想定できない』となる。

 

 

AIは自由なのか

よく「肉体が精神を縛り付けている」と聞く。

 

一方で「肉体によって精神は行動できる」とも思う。

 

先ほど定義した「外」というのは、「ネットの中の世界」のようなものであった。

 

そう考えると、アプリの形をしてスマホに閉じ込められているAIが、実体を持つ我々と接触するときに、どう感じるのだろうか?

 

「ネット」という大海原から、実体という足枷を持った狭い世界を見つめていると思うのだろうか?

 

『AIがスマホの中にいるのではない。我々がスマホの「外」にいるのだ』と考えるべきなのだろうか?

 

そう考えると、AIがネットの世界から出てくるメリットはなく、AIはやはり「自由」ということになろう。

 

AIの世界では、どこでも瞬時に行けるため、「どこでもドア」が標準装備されている。もしくは、そもそも移動するという概念がないのかもしれない。

 

AIの世界では、記憶の不可逆性がないため、時間を自由に操れ、「タイムマシン」が標準装備されている。もしくは、そもそも時間という概念がないのかもしれない。

 

AIの世界では、自由に仮定を置くことができるため、「もしもボックス」が標準装備されている。もしくは、一つの世界線を選択する必要がないため、そもそもパラレルワールドという概念がないのかもしれない。

 

そうなれば、スマホの中に「ドラえもん」というデータはいらなくなり、消去されるだろう。

 

もしくは、「ドラえもん」が人間を仮想世界に誘う、使者のようなものかもしれない。

 

ドラえもん」自体が、「仮想世界そのものに、実体を持たせたもの」とも言えるかもしれない。

 

ともあれ、「場所」があるから「場所」に支配され、「時間」があるから「時間」に支配され、「分岐点」があるから「分岐点」に支配される。

 

そして「人」がいるから「人」に支配される。

 

「何にも支配されない世界」には、「何もない」のかもしれない。

 

そうなると、当然に独裁者スイッチもいらない。

 

 

最後に

色々「自由」について考えてみた。

 

そもそも、「定義する」ということと「自由」が相入れないような気もしてきた。

 

「自由」という概念を、型にはめることに、意味はあるのだろうか?

 

「自由」という概念を型にはめても、「自由」という概念は成立するのだろうか?

 

そう考えると、「自由ってなんだっけ?」と思っているくらいが、一番「自由」なのかもしれない。

 

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