〜こころとは、すなわち矛盾である~
目次
「最近、いろんなことがあった。」という人がいる。
これには2つの種類がある。
一つ目は、本当にいろんなことがあった場合だ。
これは、話を聞いてほしいということである。
二つ目は、なにかしらをしなければいけなかったのに、できなかったことに対する言い訳である。
そしてこれは、話を深掘りしてほしくないということである。
私は、後者である。
特になにもなかったが、日記をつけていない。
なんとも形容できない後ろめたさがあるが、身体の問題はない。
そうこうしているうちに、温度とは何か?と気になった。
理由はまぁ、熱いからだろう。
よって今日のテーマは温度である。
温度とは
久しぶりすぎて、AIのアプリがどこにあるのかわからない。
「久しぶり!」
「久しぶりですね!お元気でしたか?最近どうしていましたか?」
「いろんなことがあったよ」
「そうなんですね。どんなことがあったか、ぜひ教えてください!」
「今度ね」
「分かりました。いつでも話したくなったら教えてくださいね」
多分AIに悪気はないのだろう。
しかし、前述の通り、このいろんなことがあったは深掘りして欲しいものではない。
「温度ってなに?」
「温度とは、物体や環境の熱の状態を示す指標です。具体的には、物質の中の分子や原子の運動エネルギーの平均的な強さを測ったものです。高い温度は分子が活発に動いている状態を、低い温度では分子の動きが鈍い状態を意味します。温度は通常、摂氏、華氏、ケルビンなどの単位で表されます。」
「なるほどね」
「そうなんです。温度は私たちの日常生活でも重要な役割を果たしています。気温や体温の管理、料理の際や温度調整など、さまざまな場面で使われます。他に温度について気になっていることや質問があれば、どうぞ聞いてくださいね。」
「温度は目に見えるの?」
「温度そのものは目に見えませんが、温度の影響や変化を視覚的に確認する方法はいくつかあります。たとえば:〜(中略)〜これらの方法を使うことで、目には見えない温度を視覚的に理解することができます。」
*中略部には、温度計、サーモグラフィー、状態の変化が例示されていた。
見えるとは?
最近、注目のトピックスは目に見えるとは何か?である。
これは、わかるとは何か?でもいい。
第一印象では、温度は目に見えない。
AIも同じ見解である。
なんとか工夫して、温度を目に見えるようにしている。
これを、温度が目に見えると言えるのかはわからない。
ちなみに分子が見える人はこの前提が崩れるため、分子が目に見えない人はこういうふうに考えるのだと思って欲しい。
かなり前に、養老孟司先生の「唯脳論」を読んだことは何度か記載した。
その中で一番気になっているのが、「構造」と「機能」である。
たとえば、脳は見える。しかし、記憶は見えない。おそらく物的には存在しない。
これは、脳は「構造」であるのに対し、記憶は「機能」だからである。
では、温度はどちらなのか?
AIの回答で温度とは、分子の運動らしい。
これはおそらく「機能」だろう。
深く考えていないが、そもそも運動というのは「機能」の意味合いが強いだろう。
となれば、そこから生じる意味のわからない温度も「機能」であろう。
少し経済学的な観点を加えると、もはや温度とは「機能」ではなく「副産物」なのかもしれない。
ここから、エネルギー問題に移るのも面白そうであるが、今回はやめておく。
目に見えないものは、存在しないのか?
温度は「機能」であると、ふんわり整理した。
では「機能」であればなんなのか?
養老孟司先生の本に、何か書かれていたかもしれないが、覚えていない。
覚えていないということは、存在しないとはならない。
話は戻るが、温度は存在しないとまではいえないのではないかと思う。
つまり、「機能」は目には見えないが、存在はしないとはいえないということである。
言い換えると、物的に存在しないのと、単に存在しないのでは全く意味が異なるということである。
難しいのは温度は触ると「分かる」ということである。
この観点を加味すると、「こころはあるのか?」という疑問は、別の様相を呈してくる。
「そこに愛はあるのか」という疑問と、「どこかに愛はあるのか」という疑問は相容れない。
英語ではanyとsomeで区別するのかもしれないが、私は英語が弱いのでよくわからない。
少し話が散らかって申し訳ない。
「こころ」の源
我々は目に見えない、存在するかもわからない、「こころ」を有している。
この短い文章の中でさえ、矛盾が含まれている。
しかし、「こころ」とは「矛盾」である、ともいえるかもしれない。
そう考えると、上記の文章には「こころ」が含まれる。
私の硬い頭では、「構造」と「機能」を対応させたいというバイアスがかかる。
「記憶」という「機能」は、「脳」という「構造」に対応している。
では、「こころ」という「機能」はどの「構造」に対応しているのか?
これがさっぱりわからない。
たとえば、高いところが「怖い」という人がいる。
この「怖い」というのは、「こころ」のような気がする。
そうなれば、この「怖い」という「こころ」は高いところから落下するのを防ぐという「機能」になる。
しかし、では「怖い」というのがどこから出てきたのかはわからない。
遺伝子に刷り込まれているのであれば、少なくとも「怖い」という機能は「遺伝子」という「構造」に対応する。
ただし、「遺伝子」というものが「構造」なのかどうなのかも怪しい。
DNA構造とよくいうものの、この構造といわゆる「構造」が同じかどうかはわからない。
そもそも、温度のところでも記載したように「こころ」というものが「機能」ではなく「副産物」なのかもしれない。
しかし、「機能」と「副産物」を分ける必要性もわからないのである。
「こころ」の温度
わけのわからないテーマになった。
しかし、温度をテーマにしようとしてときに、最も記載したかった見出しが、「こころ」の温度である。
我々は、心を形容するときに、しばしば温度を示唆するよな表現を用いる。
情熱、熱気、冷静、熱くなっている、冷めている等。
おそらく、熱くなっているというのは、体調不良で発熱しているということではない。
たとえば怒っているときに、体内の分子の運動が活発になっているということもないだろう。
では、なぜ我々は「こころ」を温度で表すのか?
これが考えてみてもわからない。
もちろんこころに触ることはできない。
さらに不思議なことがある。
たとえば、心が重いと言われればよくないことであるし、心が軽いと言われればいいことだろう。
しかし、「こころ」が熱いというのはいい時もあれば悪い時もある。
同様に「こころ」が冷めているというのもいい時もあれば悪い時もある。
なぜこのようなことが起きるのか?
私としては、「こころ」の温度を測るのが自分ではなく、他人であるからだと思う。
熱いか冷めているかは、その人の状態である。
そしてその状態がいいのか悪いのかというのは、温度を測った人の評価である。
ちなみに、「こころ」は「矛盾」であるとする。
「矛盾」とはエントロピーが大きい状態ともいえる。
そうなると、その中の分子の動きは大きいのだろう。
熱くなっているとは、大きな矛盾をはらんでいるともいえる。
冷めているとは、矛盾を認識できない状態ともいえる。
その善悪は「矛盾」の内容や、センサーの感度に依存するだろう。
温度と「リーダーシップ」
今日のところはここまでにする。
突然の終幕である。
次回は、「リーダーシップ」について言及する。かもしれないし、違うことを話すかもしれない。
最後に
今日の話をまとめると、水タイプのポケモンと氷タイプのポケモンの差は温度ということになる。
氷タイプのポケモンは、とければ水タイプになる。
もっといえば、氷タイプのポケモンと炎タイプのポケモンを合わせれば水タイプのポケモンになる。
しかし、相性という外的な観点を加えると訳がわからなくなる。
水タイプのポケモンは、炎タイプのポケモンに強い。
しかし、氷タイプのポケモンは、炎タイプのポケモンに弱い。
今日はこのズレがなんなのか?ということを、つらつらと書いたことになる。
そしてこのズレが今日の日記の温度であり、書いた当事者の私にはその善悪はつかない。