文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

自由と競争

〜多様性を認めるべきだという発言には、多様性を認めないという価値観を受け入れない、という大きな矛盾を孕んでいる〜

 

 

 

随分と久しぶりの日記になってしまった。

 

色々とあった。

 

いい訳ではなく、色々あった。

 

もっともわかりやすいものであれば、異動だろう。

 

4月に異動となったのだが、いまだに手続き関係が終わっていない。

 

それと日記を書かなかったことの関係はないのだが。

 

というわけで今日のテーマは「自由と競争」である。

 

異動になったので、心機一転、今後しばらくはテーマを「⚪︎⚪︎と⚪︎⚪︎」というように、2つのものにしようと思う。

 

 

自由について

自由とはなにか、と問われた時には、「なんでもできる状態」と回答しているようにしている。

 

もちろん、問われたことはない。

 

ここで重要なのは、状態ということだ。

 

一般的に自由と言えば、ポジティブな言葉なのだろう。

 

しかし、自由という状態から、何かしらの便益を得たいのであれば、とあることが必要になる。

 

それは、「能動的な行動」である。

 

 

能動的な行動について

人間には損失回避バイアスというものがある。

 

私は、このバイアスについて、性格よりも置かれている状況に依存しているのではないかと推測している。

 

そして、この損失回避バイアスが、自由という状態を、隅々まで楽しむことを妨げている。

 

その意味で、我々にはそもそも自由を楽しむことは難しいかしい。

 

 

自由の税金

自由という状態を、ノーリスクで生み出すことは難しいと考える。

 

これは、リスクを顧みずに行動するものがあまりに有利になるからである。

 

例えば法律なども、自由を制限しているかも知れないが、ここはあまり勉強していないため、深入りしない。

 

また、自由の税金の一つに「競争」があろう。

 

 

競争について

自由を「なんでもできる状態」と仮定した。

 

となれば、何かをする人と、しない人が出てくる。

 

例えば、勉強を始めとした努力である。

 

努力をする人もいれば、しない人もいる。

 

どちらを選択してもいい。

 

それが自由である。

 

しかし、このような条件下では当然に「差」が生じる。

 

学歴や年収、容姿なども、立派な「差」である。

 

自由の中において、これらの「差」は当然のものであり、その「差」によって取り扱いが変わっても、問題はない。

 

それが自由なのである。

 

 

スポーツと自由

もちろん、学力などは遺伝や経済力といったものも影響することがある。

 

しかし、これらを考慮するとき、すでにその議論は自由の外にある。

 

個人的にもっとも自由なものが、スポーツである。

 

スポーツでは好きな戦術を取ることができる。

 

好きな練習をすることができる。

 

そして試合で、点数やタイムに「差」が生じ、それによって勝敗が決する。

 

一般的に、勝者がさまざまな便益を享受する。

 

まさに、自由である。

 

 

競争と自由

これまで述べた通り、自由には競争がついてまわる。

 

そして、競争から「差」が生じる。

 

我々人間は、損失回避バイアスがかかる。

 

これは損失だでけでなく、おそらく「何もしないで敗北する」ことも回避したいと思うのではなかろうか?

 

となれば、我々は強制的に競争に参加させられ、そして勝たなければならないのである。

 

これが、果たして「自由」と言えるのだろうか。

 

「自由」とはいったいどこにあるのだろうか。

 

 

自由な人

しかし、世の中には「自由な人」という人がいるのではなかろうか?

 

私もよく「自由な人」と言われる。

 

では、どんな人が「自由な人」なのだろうか?

 

それは、「差」を気にしない人なのではないだろうか?

 

これは、必ずしも「敗北」をなんとも思わない、負け犬のような人ではない。

 

他の人と、負けたくない部分が異なっている人ではなかろうか?

 

例えば、私は美味しいものを、たくさん食べたいとは思わない。

 

毎日同じものを食べても苦にならない。

 

ただ、食べ物で毎日迷いたくはない。

 

このような食生活を、一般的な人は、寂しい人だと思うだろう。

 

しかし、私はなんとも思わない。

 

これが、「自由な人」である。

 

 

「自由な人」になる方法

自由な人になる方法は、最初のテーマに戻るのだが、能動的に自分に意思を持つ必要があろう。

 

自分の価値観をしっかり持つことである。

 

特に、昨今、多様性という言葉によって、一般的に人間像から多少外れても受け入れられる。

 

そう考えると、多様性とは、一般論からの解放である。

 

ただし、多様性を認めるかどうかが、相手の自由であることを忘れてはならない。

 

多様性を認めるべきだ!という考えには、多様性を認めないという価値観を、こちらが否定しているという、大きな矛盾を孕んでいる。

 

 

最後に

結局何が言いたいのか。

 

分からない。

 

自由とはなんなのか?

 

自由というものを、性格に定義できた時、自由というものは、自由という言葉に縛られることになり、自由ではなくなる。

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

また、時間があれば、日記を書いていきたいと思います。

 

最近考えていること〜聖徳太子と生産性とセンスとかわいい〜

〜生産性の一番のブレーキは、徒労という名の免罪符である〜

 

目次

 

 

今日は一つのテーマで話すよりも、最近考えていることをざっと羅列したい気分になった。

 

よって今日は、何かしらの思想を深めるよりも、思想の種をばら撒くことになる。

 

もし興味があるものがあれば、考えてもらいたい。

 

ちなみに、最近は暖かいが、明日からはまた寒いらしい。

 

 

聖徳太子について

最近もっとも考えていることは、聖徳太子がいたかどうかということである。

 

このテーマにはいくつかの論点がある。

 

まず、何をもって「いた」とするかである。

 

過去のことなど誰にもわからない。

 

よって、聖徳太子がいたかどうかを決めるのは、今の人間である。

 

どれだけの証拠が集められるかが肝になろう。

 

であれば、証拠がなければどうなるのか?

 

不明となる。

 

しかし、私から言えることは一つで、聖徳太子は「いた」か、「いなかったか」のどちらかである。

 

おそらく聖徳太子は半分だけいたということにはならないだろう。

 

例えば、今年の大河ドラマ蔦屋重三郎もいたかどうかわからない。

 

1000年後の日本人が、今日の大河ドラマを持って、蔦屋重三郎はいたと判断するかも知れない。

 

同じように、横浜流星という人間はいたのかという問題もある。

 

彼が本名なのか芸名なのかはわからないが、芸名であれば尚更である。

 

正味な話、古畑任三郎はいたのか?と同じようなニュアンスになる。

 

ようは、聖徳太子がいたのかどうかというのは、そこまで重要なことではなくなる。

 

よって、この話はここまでとしよう。

 

本当は他にも論点があったのだが、後日にまとめようと思う。

 

 

「かわいい」という感情について

先日、普通にスルーしたが、今週のお題が「かわいい」に関すること、のような感じであった。

 

その説明文の思想が思ったよりも強かったため、衝撃を受けた。

 

詳しい内容は覚えていないが、かわいいという感情は余裕が必要、という要旨だったと思う。

 

思えは、最近余裕がない私は、かわいいと思うことが全くない。

 

であれば、かわいいという感情の本質はなんなのか?

 

これは、お題の説明文の通り、かわいいと感じる側の余裕であろう。

 

例えば、常に怒鳴り散らかしている私の上司も、私の心に余裕があればかわいいとなるのだろう。

 

にわかには信じ難いので、明日、その上司をかわいいと思えるか試そうと思う。

 

しかし、明日は月曜日なので、当然に余裕がなく、かわいいと思えるかという検証のことすら忘れてしまうのだろう。

 

では、私自身が私自身をかわいいと思える時はあるのか?

 

言い換えれば、私自身に余裕があれば、周りのものはなんでもかわいいと思えるのだろう。

 

この時、周りのものに私も含まれるのであろうか?

 

そもそも、かわいいという感情はいったいどういうものなのだろうか?

 

という、悲しきモンスターのような結論になってしまう前に、この話はここまでとしよう。

 

 

生産性について

最近、生産性という言葉をよく聞く。

 

個人的には、分母がコスト、分子が成果物であると考えている。

 

よって、生産性を上げる方法は2つで、成果物を多くするか、コストを削減するかである。

 

一般的に、成果物を多くするのは難しいのだろう。

 

であれば、コストを削減することのほうがよっぽど実現できるのだろう。

 

ちなみに私は、コスト削減に関しては、若い人ほど感度が高いと考えている。

 

昨今の若者は、恐ろしいほどにコスト管理に厳しい。

 

いったい、コストに何をされるとそうなるのだろうか?

 

この先少し話が逸れるので、別の章に移る。

 

よって、この話はここまでとしよう。

 

 

仕事の速さについて

仕事が早い人と遅い人がいる。

 

よくこんな分け方がなされる。

 

私はもう1軸追加して考えている。

 

それは、仕事が丁寧か雑かである。

 

ほとんど同じ意味なのだが少し違う。

 

仕事が早くて丁寧なひと、仕事は遅いが丁寧なひと、仕事は速いが雑なひと、仕事が遅くて雑なひと。に分けられる。

 

新入社員は当然に仕事が遅くて雑である。

 

かわいそうなので言い換えてあげると、無垢なのである。

 

仕事が早くて丁寧な人は、もはや達人の域である。

 

重要なのは、仕事は遅いが丁寧な人と、仕事は速いが雑な人の位置付けである。

 

私の見解では、仕事は速いが雑な人の方が、貴重である。

 

これは日本人が結果を重視するか、過程を重視するかという、大きな問題まで遡ることになる。

 

またまた私の見解になるが、日本では基本的に結果が重視される。

 

しかし、結果が芳しくなくても、過程で頑張っていれば許してあげようという、「お情け」という文化がある。

 

よって、仕事が遅い人はこの「お情け」を獲得しに行くのである。

 

逆に言えば、仕事が早い人はこの「お情け」なんていらない。と考えられる人である。

 

よって、結果を求める。

 

注意して欲しいのは、仕事が遅いが丁寧な人が、そのまま仕事が早くて丁寧になることは難しいということだ。

 

必ず、この「お情け」を使わずにどれだけ仕事ができるかを試される。

 

日本で言えば、その多くは管理職になった時であろう。

 

逆に、管理職になりたいのであれば、失敗がゆるされる若いうちに、「お情け」を使わない働き方を試しておいた方がいいだろう。

 

興味深いのは、この「お情け」というのが、「結果論」の特効薬として成立している現実である。

 

かねてより私は「すべての現代人は、時間の矢面に立たされている」というようなことを言っている。

 

結果というものを、未来のものと捉えると、当然にどうなるかわからない。

 

しかし、結果というものを過去のものと捉えると、当然にそうなるに至った過程が大事である。

 

この二つの結果に、新しい名前をつけてあげたいが、パッと面白い名前が思いつかないため、この話はここまでとする。

 

 

ダイエットについて

1月に8キロほど痩せたが、2月に入ってから全く体重が変わらなくなった。

 

そのため、昨日今日と炭水化物をかなり摂取した。

 

明日からまた、糖質を制限するが、体重が落ちてくれればいい。

 

深い話は全くないので、この話はここまでとしよう。

 

 

センスについて

最近、岡本太郎さんの「自分の中に毒を持て」という本と、千葉雅也さんの「センスの哲学」という本を合わせて読んだ。

 

センスがなんなのかについてふわっとわかった。

 

しかし、センスの良いものをどう生み出すかについてはよく分からなかった。

 

きっと、生み出した物の中から、センスのいい別の誰かが、なんらかの形で見出してくれるものなのだろう。

 

こうして発掘された「初物」は、その人のセンス自体のオリジナリティで溢れており、極めて価値が高いのだろう。

 

いずれにしても、この2つの本はとても面白く、続きはぜひ本を読んでいただきたいので、この話はここまでとしよう。

 

 

最後に

最後に今日のまとめをしたかったが、すでに文章が長くなってしまったため、やめておこう。

 

本日も読んでいただきありがとうございました。

 

時間旅行について〜後悔など存在しない世界〜

〜今日できることを明日に回せば、明日は今日の風が吹く〜

 

 

 

最近はそこそこ忙しく仕事をしていた。

 

しかし、この大寒波のおかげで、いろんなことがリスケになり猛烈に暇である。

 

そんなわけで、久しぶりに科学的なことでも考えようと思う。

 

もちろん、乗り気ではない。

 

風が強く、家が揺れている。

 

 

速度について

かねてより述べていることだが、速さにもっとも必要なものは、幅である。

 

これは、どれだけ移動したかではなく、どれだけの時間でどれだけ移動したか、が速さだからである。

 

そうなれば、当然に速さには時間的な幅が必要になる。

 

となったときに、なぜ光の速さは一定なのかというのは、当然の疑問といえよう。

 

ちょっとぐらい、速さにむらがあっても良いではないか。

 

 

光には速度がない仮説

最近私の中でもっとも議論されている論点が、光の速さである。

 

結論から言うと、光には過去も未来もないのではないかという仮説である。

 

詳しくは、光の二重スリット実験を参照してほしい。

*私はざっと見ただけで理解はしていない。

 

 

動画編集について

おかしなテーマになった。

 

しかし、もっとも言いたいことがこれだ。

 

我々は過去に戻ることができない。

 

よって、撮影した動画で例える。

 

撮影した動画は再生することによって、過去を追体験できる。

 

3Dでかつ嗅覚刺激も再現できる録画装置が完成すれば、我々はもはや過去に行けると言っていい。

 

撮影した動画で言えば、編集することで過去を変えることができる。

 

これは私の中で、極めて特異なことである。

 

 

過去と未来の違い

我々はなぜ過去と未来を分けられるのか。

 

それは、過去のことはある程度わかるが、未来のことはわからないからであるといえよう。

 

もう少し変なことをいう。

 

我々は誰しも、生まれて死ぬという順番に、一才の疑問を持たない。

 

昔、ベンジャミンバトンという、年寄りの状態で生まれて、若返って死ぬという映画があった。

 

問題は、私がその映画を見ていないことだ。

 

しかし、死んだ状態から、生まれるという流れでもいいはずである。

 

念の為断っておくが、これは輪廻とか異世界転生とかという話ではない。

 

生まれるのと死ぬのはどっちが先ですか?と言われたときに、当然に生まれるのですと答える必要がないということである。

 

 

未来の定義

我々は、未来というものを先がわからないものというニュアンスで捉えるだろう。

 

つまり、我々はまだそれを体験していないから、未来のことだと。

 

しかし、そんなものは生物以外のものにとってみれば、極めて瑣末なことではなかろうか?

 

例えば、宇宙の誕生と終焉が同じ形をしているのであれば、そこに生も死もない。

 

それは純再生なのか、逆再生なのかもわからない。

 

ようやく、本題に戻る。

 

 

時間から解放された光

例えば、今日の日記も、後日修正するかもしれない。

 

では誰がどんなときに修正するのか。

 

これは、私が私の気分に従って修正するのである。

 

全て消すかもしれないし、順番を入れ替えるかもしれない。

 

私はこの日記の時系列を自由にいじることができる。

 

同じように、光も、過去と未来を自由に行き来しているのではなかろうか?

 

光はどこからどこへ行くのではない。

 

その時の気分によって、どの空間にも、どの時間にも行き来できるのではなかろうか?

 

そう考えれば、二重スリット実験の結果にもうなづける。

 

光は過去と未来を自由に行き来できる。

 

しかし、自由に行き来できない我々は、我々が観測したときに光がどっちにあったかしかわからない。

 

そう考えると、光が持たないのは、質量ではなく時間ということになる。

 

逆に、質量がなければ、自由に時間を行き来できる可能性がある。

 

 

どこでもドアの本質

以前の日記で、どこでもドアの本質は交通手段だと言った。

 

換言すれば、どこでもドアがある世界では、飛行機も自動車も電車もない。

 

それは奇妙な静けさだった。

 

例えば自動車たちは、一体どこへ行ってしまったのか。

 

人々は当惑し動揺して電車たちのことを話した。

 

僅かに見かける飛行機は、生きているというよりも死んでいるようで、激しく震えて飛ぶことはできなかった。

 

それは、沈黙の春であった。

 

 

どこでもドアの構造

以前、分子レベルで人体を分解し、そこらへんの分子をくっつけて、別のとことで再構築すれば、どこでもドアは簡単にできるといった。かも。

 

しかし、これは同時に、容易に我々のコピーが作れるということでもある。

 

そうなれば、私のコピーをたくさんつくって世界にばら撒けば、幾つもの私が同時に存在することになる。

 

過去のデータをとっておけば、タイムトラベルもできる。

 

いろんな記憶を持った私が存在し、私はいよいよ過去と未来を超越する。

 

私は光になれる。

 

 

最後に

最近理系の本を読んで無さすぎるので、私の科学力が著しく低下している。

 

勉強不足のツケが祟っている。

 

明日から少し勉強でもしようかな。

 

まあ明日は明日の風が吹く

 

今日できることを明日に回せば、明日は今日の風が吹く。

 

読んでいただきありがとうございました。

 

 

偏食について〜本当に好きな食べ物はなんですか〜

〜油っこいものが嫌いな人は、むしろ健康である〜

 

 

 

最近、ダイエットがうまくいっている。

 

正月にとんでもない体重になったが、今年に入ってから6キロ痩せた。

 

肌の艶もいい。

 

このペースでいけば、11月ごろに体重が0kgになる計算だ。

 

というわけで、今日のテーマは「偏食」についてである。

 

理由は、偏食の価値観を皆さんに広めたいからである。

 

 

偏食と好き嫌い

偏食とは、よく考えたところ、偏った食事だと思う。

 

好き嫌いと偏食家は同一視されることがある。

 

しかし、私は分けて考えている。

 

もっと言えば、好きと嫌いも分けている。

 

今日はそんな話をしたい。

 

 

嫌いな食べ物

私は魚が嫌いである。

 

これは昔の日記で書いたことがあると思うが、私の祖先が魚だからである。

 

というのはもちろん嘘である。

 

よく言われる、美味しい魚は臭くない、という言葉がある。

 

であれば普通の魚は臭いのだろう。

 

ではなぜそんな臭いものを食べるのか?

 

食べなければいいのに。

 

皆さんは芋虫の刺身を食べられるだろうか?

 

大丈夫!新鮮な芋虫は臭くないと言われて、食べられるだろうか?

 

皆さんに取っての芋虫が、私にとっての魚である。

 

 

好きな食べ物

私はカレーとラーメンが大好きである。

 

どちらも糖質と脂質がアホみたいに入っている。

 

要は太る。

 

生物学的に、太る食べ物は美味しいのだろう。

 

そう考えると、カレーとラーメンが好きな私は、生物学的に正しい。

 

 

偏食について

さて、ようやく偏食の話である。

 

皆さんは朝食はご飯派であろうか、パン派であろうか?

 

どちらであっても、偏食である。

 

朝はご飯とパンをバランスよく食べなければならない。

 

偏食を自覚していないというのは、そもそも偏った考え、偏考である。

 

おそらく偏考は、偏食よりもタチが悪い。

 

 

偏食の特徴

最近ダイエットをしているといった。

 

特に食事制限というのは、完全に偏食となる。

 

私で言えば、一日の糖質を30g以下にしている。

 

完全な偏食であろう。

 

毎食、ナッツを食べている。

 

晩御飯はボークステーキか、サーロインステーキのみである。

 

毎日こんな食事である。

 

しかし、全く飽きない。

 

私は昔から、毎日3食うどんやカレーでも数ヶ月であれば続けられる。

 

これが偏食家の最大の武器である。

 

ダイエットにもっとも必要なスキルは、偏食といえよう。

 

 

偏食と健康

ボディメイクをする方には、いわゆるフル食というものがある人が多いと思う。

 

毎日の食事が決まっているのだ。

 

そしてそれを毎日食べる。

 

もちろんこの食事は、栄養バランスが完璧になっている。

 

ただ毎日同じものを食べる。

 

果たしてこの食事は、偏食と言えるのだろうか?

 

仮に偏食だとして、この食事は健康なのだろうか?

 

そしてそして、仮にこれが健康であるとして、毎日違うものを皆さんの食事は健康なのだろうか?

 

 

偏食のない国

例えば、フランス人はワインを飲み過ぎである。

 

イタリア人はチーズを食べ過ぎである。

 

ドイツ人はソーセージを食べ過ぎである。

 

インド人はカレーを食べ過ぎである。

 

韓国人はキムチを食べ過ぎである。

 

日本人は白米を食べ過ぎである。

 

アメリカ人はいろんなものを食べているが、食べ過ぎである。

 

 

偏食家の主張

よく、偏食はよくないと聞く。

 

昨今、アレルギーに対する認識が浸透したため、偏食に関しても許されるようになった。

 

それでも、好き嫌いはダメだという人もいる。

 

私もよく好き嫌いはよくないと言われる。

 

なぜなのか?

 

わからない。

 

健康によくないということを根拠にする方もいる。

 

しかし、嫌いな食べ物がないことをもって、バランスの取れた食事ができているということにはならない。

 

なんなら、私にはないが、飲酒習慣のある人の方がよっぽど健康に良くないだろう。

 

また、脂っこいものや甘いもの、しょっぱいものが嫌いという人のほうが健康ではなかろうか?

 

 

軌道修正

なんか今日は愚痴っぽい日記になっている。

 

まあいいや。

 

軌道修正失敗

 

 

あなたが本当に好きな食べ物の探し方

前述した通り、私は糖質制限を行っている。

 

そんな中で2週間に一度、好きなものを食べてもいい日にしている。

 

その日、私は何を食べるかというと、ネギ玉牛丼を食べるのである。

 

その日は、どれだけ贅沢なものを食べてもいい。

 

どれだけ甘いものを食べてもいい。

 

しかし、心の底からネギ玉牛丼が食べたくなる。

 

2週間糖質を絶った後のネギ玉牛丼は、この世のものとは思えないくらい美味しい。

 

ちなみに、なかやまきんに君は減量後、クリームパンを食べたくなるらしい。

 

おそらく、このような状況に置かれてこそ、本当に自分の好きなものがわかるのだろう。

 

私は胸を張って、好きな食べ物はネギ玉牛丼ですと答えられる。

 

 

最後に

現代ではなんでもいつでも食べられる。

 

そのような世界で、本当に自分の好きな食べ物がなんなのかを見つけるのは難しいだろう。

 

嫌いな食べ物がないというのは、好きな食べ物がないというのと同じ意味なのかもしれない。

 

本日も読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

2025年の目標

〜嘘をついて歩こう、涙がこぼれないように〜

 

 

今年の正月は長い。

 

特にすることもないのだが、毎日締まりのない日々を送っている。

 

それが正月の醍醐味なのかもしれない。

 

ここまで正月が長いと、スムーズに仕事に戻れるかが不安になってくる。

 

今日のテーマは2025年の目標である。

 

理由はない。

 

いつも、哲学的なことを書いているが、今日は哲学的な話は一切ない。

 

完全にプライベートな日記である。

 

 

2025年にしたいこと

今年こそはダイエットを成功させる。

 

ダイエットをしたいですか?と言われて、したくないですという人は少ないだろう。

 

ではなぜしないのか?

 

できないからである。

 

例えば、毎日勉強をする、という目標であれば、思い立ったときにすれば良い。

 

電車の中でも、トイレの中でも勉強ができる。

 

仕事後に疲れているから、と逃げやすいのであれば朝にすればいい。

 

しかしダイエットはそうはいかない。

 

これは、ダイエットというものは食事制限を、月単位で行うものだからだ。

 

よって、ダイエットをするというのは、数ヶ月間暴飲暴食をしないということである。

 

もっと言えば、数ヶ月の間、24時間体制で我慢し続けることである。

 

持久走の類である。

 

 

2025年にしないこと

2025年にしないことを決めようと思ったが、長すぎるため1〜2月にしないことを決める。

 

まず、ラーメン、カレー、牛丼、揚げ物等の禁止である。

 

どれも私の大好物であり、2024年はたらふく食べた。

 

いよいよ本気を出した私は、2025年に入ってから炭水化物を一切取っていない。

 

というと語弊があるが、糖質はせいぜいプロテインバーから摂取する、一日30〜40g程度に抑えている。

 

よって、頭はフラフラするし、考えはまとまらないし、機嫌も少し悪い。

 

このダイエットはおそらく身体に悪いだろう。

 

では聞く、身体に良いダイエットはあるのか?

 

ある。それは、体重の減少を防ぐダイエットである。

 

身体に負担のかからないダイエットである。

 

何が言いたいのかわからなくなってきた。

 

例えば、消化器に病気が見つかったとする。

 

開腹手術をすると、身体にダメージが加わるし、しばらく病院で安静にしなければならない。

 

いろんな合併症も起こるかもしれない。

 

となると、開腹手術は身体に良いのか?悪いのではないか?となる。

 

ではなぜ開腹手術をするのか?

 

当然、消化器の病気を排除するためである。

 

例え身体にダメージがあっても、開腹手術を実施し、消化器の病気を排除する方がメリットが大きいのである。

 

これは、肥満においても同じことが言える。

 

肥満というのは、一種の炎症であると聞いたことがある。

 

これが正しいのかはわからないが、太ったままでいるのはよくないだろう。

 

となれば、ダイエットもしくは体重を落とすことが多少身体にダメージを与えたとしても、太ったままでいることに比べると、必ずしも悪いとは言えないだろう。

 

何が言いたいか。

 

痩せたいのである。

 

10kg程度痩せたときに、自信を持って好きなものを好きなだけ食べようと思う。

 

二郎系ラーメンとほうれん草チーズカレーとネギ玉牛丼とヒレカツ定食を食べる。

 

デザートはフレンチクルーラーかりんとう饅頭とバームクーヘンを食べる。

 

 

2025年にしないこと2

先日のブログで、今年は何をしないかを考えるといった。

 

正直、ブログを更新しない!というオチにしようと思ったが、1月3日の時点でブログを書きたくてうずうずした。

 

よって今、ブログを書いている。

 

ブログはやめられそうにない。

 

 

2025年にしないこと3(目玉)

今年の目玉政策の発表である。

 

それは、正直でいることをやめるということである。

 

裏を返すと、一日に3回は積極的に嘘をつこうと思う。

 

昔、ユーチューバーの企画で、全て「はい」というのと「いいえ」というのではどちらがいいか?というものがあった。

 

少し捻って、正直でいるのと、嘘をつくのではどちらがいいのかを検証したくなった。

 

私は真面目である。

 

不正やズルは許せない。

 

だから、それをやめるのである。

 

もちろん、仕事で進退に関わるような嘘はつかない。

 

しかし、どっちでもいいことは積極的に嘘をつこうと思う。

 

私の予想では、多かれ少なかれ、人は嘘をついている。

 

そして、多かれ少なかれ罪悪感を持っている。

 

積極的に嘘をつくというこの取り組みが、嘘をついたという罪悪感からの解放につながることを期待している。

 

嘘をついて、歩こう、涙がこぼれないように

 

それを踏まえていうが、私は優しい人間である。

 

 

2025年にしないこと(その他)

元々ファッションに興味はあったが、太ってからはあまり服を買っていない。

 

痩せるまでは買わないようにしようと思う。

 

よってLサイズの服は買わず、Mサイズが合うまで待とうと思う。

 

 

2025年にしたいこと

流石に一つぐらいは、今年したいことも書いておこうと思う。

 

何も思い浮かばない。

 

本当である。

 

 

最後に

皆さんは2025年をどういう年にしたいですか?

 

という質問があるが、意味がわからない。

 

未来のことなんてわからないのだから、なるようにしかならないのではないだろうか?

 

よく、新しいことに挑戦したいという人がいる。

 

では聞く、なぜ去年しなかったのか?

 

去年しなかったことを、なぜ今年になってするのか?

 

本当にできると思っているのだろうか?

 

私がもっとも辞めたいのは、心機一転という名の、リセット症候群である。

 

 

本日も読んでいただきありがとうございました。

本年もよろしくお願いいたします。

本日のブログで、早速2〜3箇所嘘をついております。