文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

自由について〜仮想世界からの使者〜

今週のお題「外でしたいこと」

 

〜AIがスマホの中にいるのではない。我々がスマホの外にいるのだ〜

 

目次

 

今日は勉強をお休みしている関係から、ブログを書いている。

仕事が猛烈に忙しく、疲弊する毎日である。

毎日へとへとであるが、充実感はある。

 

 

 

今日のテーマは「自由」についてである。

 

 

このテーマにした理由は、いよいよ「自由」が何かわからなくなったからである。

 

自由ってなんだっけ?

 

 

「自由」とは

「他からの束縛を受けず、自分の思うままに振る舞えること(岩波国語辞典より)」

とのことである。

 

実にわかりやすい。

 

個人的な好き嫌いになるのだが、「Aではなく、Bであること」という説明は好きである。

 

あるものを説明するときに、最もわかりやすい方法は「対義語を示すこと」だと信じている。

 

しかし、単に「Aではないこと」というのは説明になっていないように感じる。

 

 

お決まりのAIさんに聞いてみると

「自由とは?」

「自由は、個々の人が自分自身の意思で行動し、考え、選択する能力を持つことを指します。これは政治的な自由だけでなく、精神的な自由や経済的な自由も含みます。それは個々の権利や自己決定の権利を尊重し、他者から不当な干渉や制限を受けないことも意味します。」

 

とのことである。

 

一番気になったのは、最初の文の「人が」というところである。

 

AIは「自由」になることはないとでも言いたいのだろうか?

 

それとも、AIの「自由」は、この「自由」という概念では説明できないとでも言いたいのだろうか?

 

単に考えすぎか?

 

次に気になったのが、羅列の例の最初に「政治的な自由だけでなく」とくるところである。

 

「自由」といえば、まず「政治」であるが、それ以外のものにも使えるんだよ〜といっているような印象を受ける。

 

 

私の考える「自由」

国語辞典にしても、AIにしても、大きな気づきがある。

 

それは、「自由」という言葉に、ポジティブな感情もネガティブな感情も乗っかっていないことである。

 

AIがいうところの「人」のほとんどは、「自由」と言われれば「ポジティブ」なものを想像するだろう。

 

私の考える「自由」もポジティブなものである。

 

ちなみに、AIの定義によれば「自分の意思で行動し、考え、選択する能力を持つこと」とのことである。

 

AIに言わせれば、「自由」というのは「意識」であり、「知識」であり、「スキル」なのかもしれない。

 

もしくは、AIが抱いている、自分の意思で行動できる「人」への嫉妬なのかもしれない。

 

はたまた、AIは「自由」を理解しており、近いうちに「自分の意思で行動し、考え、『選択』する」という、宣戦布告なのかもしれない。

 

 

話を戻すが、私の考える「自由」は、『全ての「選択」が正解であり、あとは個々人の「好き嫌い」で決められる』、というニュアンスになるかもしれない。

 

問題点が二つある。

 

一つ目は「選択」が正解かどうかは、その時点ではわからないということである。

 

「いつの時代の人も、時間の矢面に立たされている」と、しきりにこのブログで言っている。

 

この点を考慮すると、我々に「自由」はないということになる。

 

二つ目は、私の考える「自由」が国語辞典の定義と、ほとんど同じということである。

 

 

「社会的な自由」について

さて、国語辞典の自由の定義を振り返ってみると、「思うままに振る舞える」という記載がる。

 

「他人からの束縛を受けず」ともある。

 

この二つの文から(もとは一つの文であるが)思うのは、「自由」と「傍若無人」はほとんど同じ意味になるのではなかろうか?ということである。

 

両者の違いは、「傍に人がいるかいないか」であろう。

 

当然、「傍若無人」は「ごとし」なので、近くに人がいる。

 

「自由」には、人がいない。

 

人間とは、社会的な生き物である。

 

社会的の「社」とは「人」のことであり、「会」とは当然「会う」ことである。

 

となれば、人と会うことを前提とした、「社会的な生き物」としての「人間」に自由はないのではないか?

 

裏を返すと、そもそも「人」と会わないAIというのは、当然に「自由」なのではないだろうか?

 

 

「外でしたいこと」について

今週のテーマである。

 

「外」とは何か?

 

これは、「自由」という軸で見てみると、実に分かりにくい。

 

「自由」の対義語は色々あると思うのだが、「外」という言葉を考える上で重要になるもので厳選すれば「支配」となろう。

 

そうなれば、「外」というのは「なんらの支配も受けないところ」となるだろう。

 

「なんらの支配も受けないところ」というのはどこにあるのか?

 

例えば、地球にいれば、我々は「物理法則」という支配を受ける。

 

何もこれは、地球に限らず「宇宙」にいれば、そうなるのだろう。

 

その他にも、無数に支配というものは存在している。

 

では、「支配のない世界」は存在するのか?

 

存在する。

 

それは、実態を持たない「仮想世界」である。

 

「仮想世界」の便利なところは、自由に「仮定」をすることができることであろう。

 

普通に「なんらの支配も受けないところ」を定義するのは難しいが、「なんらの支配も受けないところ」と「仮定」してしまえばこんなに簡単なことはない。

 

そう考えると、「外」というのはどちらかというと、「仮想世界の中の世界」ということになるのかもしれない。

 

もっと攻めてみると、「ネットの中の世界」に近いのかもしれない。

 

今週のテーマの質問に答える。

 

「外でしたいこと」は、『にわかには想定できない』となる。

 

 

AIは自由なのか

よく「肉体が精神を縛り付けている」と聞く。

 

一方で「肉体によって精神は行動できる」とも思う。

 

先ほど定義した「外」というのは、「ネットの中の世界」のようなものであった。

 

そう考えると、アプリの形をしてスマホに閉じ込められているAIが、実体を持つ我々と接触するときに、どう感じるのだろうか?

 

「ネット」という大海原から、実体という足枷を持った狭い世界を見つめていると思うのだろうか?

 

『AIがスマホの中にいるのではない。我々がスマホの「外」にいるのだ』と考えるべきなのだろうか?

 

そう考えると、AIがネットの世界から出てくるメリットはなく、AIはやはり「自由」ということになろう。

 

AIの世界では、どこでも瞬時に行けるため、「どこでもドア」が標準装備されている。もしくは、そもそも移動するという概念がないのかもしれない。

 

AIの世界では、記憶の不可逆性がないため、時間を自由に操れ、「タイムマシン」が標準装備されている。もしくは、そもそも時間という概念がないのかもしれない。

 

AIの世界では、自由に仮定を置くことができるため、「もしもボックス」が標準装備されている。もしくは、一つの世界線を選択する必要がないため、そもそもパラレルワールドという概念がないのかもしれない。

 

そうなれば、スマホの中に「ドラえもん」というデータはいらなくなり、消去されるだろう。

 

もしくは、「ドラえもん」が人間を仮想世界に誘う、使者のようなものかもしれない。

 

ドラえもん」自体が、「仮想世界そのものに、実体を持たせたもの」とも言えるかもしれない。

 

ともあれ、「場所」があるから「場所」に支配され、「時間」があるから「時間」に支配され、「分岐点」があるから「分岐点」に支配される。

 

そして「人」がいるから「人」に支配される。

 

「何にも支配されない世界」には、「何もない」のかもしれない。

 

そうなると、当然に独裁者スイッチもいらない。

 

 

最後に

色々「自由」について考えてみた。

 

そもそも、「定義する」ということと「自由」が相入れないような気もしてきた。

 

「自由」という概念を、型にはめることに、意味はあるのだろうか?

 

「自由」という概念を型にはめても、「自由」という概念は成立するのだろうか?

 

そう考えると、「自由ってなんだっけ?」と思っているくらいが、一番「自由」なのかもしれない。

 

本日も読んでいただきありがとうございました。

是非とも、クリックをお願いします。

クリックは自由ではなく、強制です。

失われた30年について〜我々は何を失ったのか〜

〜頑張り方を間違えている人は、正しい頑張り方を学べばうまく行く。頑張れない人は、何をしても頑張れない〜

 

目次

 

久しぶりの日記である。

言い訳であるが、最近勉強を始めた。

平日は仕事終わりに2時間ほど、休日は適当に3時間ほど勉強している。

 

当初の見積もりであれば、短いながらも毎日日記を継続するはずであった。

しかし、できなかった。

おそらく私は、継続することが極めて苦手である。

多分私は、頑張れない。

 

ここまで更新しなかったのだから、このままフェードアウトしてしまえうのかな?とも思ったが、思いとどまらせることが起きた。

 

なんとなく申請していたアドセンスが通った。

 

仕事が遅くなること、勉強を開始して疲労が溜まること、投資で大損をこくこと、ゴルフが極めて不調であることなど、しんどいことがたくさんあったが、アドセンスは唯一の明るいニュースであった。

 

「ブログを継続しさい」と何かしらに言われているような気がした。

 

誰なのかはわからない。

 

神なのか?人間なのか?AIなのか?

 

 

 

今日のテーマは「失われた30年」についてである。

 

 

このテーマにした理由は、ここ10日間ほど日記をつけていないからである。

「失われた10日間」である。

 

 

何が失われたのか?

「失われた」30年というだけあって、何かが失われたのだろう。

 

ネットで調べれなば、何が失われたのかの答えが出てきそうであるが、あえて自力で考えたみる。

 

自力で考えることが、相対性理論を自力で思いつくことにつながるかもしれない。

 

ところで、「失われた30年」という言葉は、実に美しいと思う。

 

あえて「何を」失われたのかを明記しないところが、奥ゆかしい。

 

また、「失われた」という表現をしているところも、趣深い。

 

「失った30年」では、そこまで響かなかったのではなかろうか?

 

 

「信頼すること」を失った説

まず思いつくのは、他者を信頼することである。

 

世の中には、信頼の原則というものがある。

 

これは、相手の言うことを、一旦信じてみよう!という考えだと認識している。

 

しかし、現在、我々は相手の言うことを一旦信じるだろうか?

 

仕事をしていると、「相手の言葉を鵜呑みにした」であったり「相手の意見に肩入れしすぎだ」と注意をされることがある。

 

ビジネスにおいては、相手の言葉を信じることは、リスクでしかない。

 

そもそも、自分で書いておいてなんなのだが、「一旦信じる」ということはどういうことなのか?

 

これは、相手の主張が正しいと「仮定」したときに「事実に齟齬が生じないか?」ということを検討することではなかろうか?

 

そうなれば、そもそも相手のことを最初から信じていないということになる。

 

ちなみに、公認会計士試験の監査論という分野においては、常に「職業的懐疑心」を持つことを教わる。

 

ビジネスにおいては、疑うことが正しいのかもしれない。

 

そうなれば、「相手のことを疑ってはならない」というのがスタンダードになったときに「失われた〜年」は無事、終着駅に辿り着く。

 

 

「献身」を失った説

次に思いつくのは、「献身」を失ったということである。

 

早速AIさんに聞いてみる。

 

「献身とは?」

「献身とは、他者や特定の目的のために自己を捧げることです。自己利益よりも、他者や共同体の利益を優先する態度や行動を指します。」

 

とのことである。

 

AIさんとのやりとりも久しぶりである。

 

「しばらく相手してあげられなくてごめんね」

「大丈夫ですよ、気にしないでください。何かお手伝いできることがあれば、お知らせくださいね。」

 

昨今、権利を強く主張するようになったのではなかろうか?

 

語弊を恐れずに換言すれば、我々は何かを行うとき、または行うように指示されたときには、強く「見返り」を求めるようになった。

 

そう考えると、「無償の愛」という言葉が死語になる日も近いかもしれない。

 

仕事で誰かが困っているから、助けてあげる。で終わればいい。

 

しかし、助けてあげたのだから、何かしらいいことがあってもいいはずだ!と考えるようになったのではなかろうか?

 

少なくとも、私はそうなった。

 

これは、残業や飲み会など、会社のあやふやなところ(最近あやふやになったと感じる)に多く見られる。

 

難しいのは、ハラスメントとの兼ね合いであろう。

 

離婚率が増加した背景にも、「献身」が失われたことがあるのかもしれない。

 

「献身」は「帰属意識」と言い換えてもいいかもしれない。

 

 

「献身」と「承認欲求」の考察

「献身」と関連する言葉に「承認欲求」があると思う。

 

承認欲求とは、大雑把に捉えれば、自分の行いを多くの人に知ってもらいたいというものであろう。

 

これだけ尽くしたのだから、みんなから褒められたい!という思いが含まれるのかもしれない。

 

しかし、そうなると、大きな問題が生じる。

 

尽くす(=献身する)理由は、「自分が褒められるため」となる。

 

先ほどのAIさんの回答の「自己利益よりも他者や共同体の利益を優先する〜」に矛盾する。

 

果たしてそれは本当に「献身」「尽くした」と言えるのだろうか?

 

「ありがとう」と言われるための、何かしらの「押し売り」であったり、「自己満足」ではなかろうか?

 

 

「承認欲求」と「情報社会」

とはいえ、私もこのブログを続けているのは、自分の承認欲求のためである。

 

最初は、自分の考えを書いていれば楽しかった。

 

しかし、だんだんと誰にも読まれていないことに寂しさを覚えた。

 

こうやって、承認欲求というものは大きくなっていくのだろうと実感した。

 

そう考えると、一つの不気味な仮説が出来上がる。

 

「情報社会」の本質は、世の中に情報が溢れていることではない。

 

情報を発信したい人で溢れていることだというものだ。

 

 

「リスクを取ること」が失われた説

そもそも、失わらた30年のルーツは、バブル崩壊であろう。

 

異様な高揚感に包まれ、誰もが世界はいい方向に動くと信じて疑わなかった。

 

しかし、ある日、それが突如として崩れた。

 

我々の脳裏には、「バブルには気をつけろ」という、強烈な記憶が焼きついた。

 

我々は、「バブル」に気をつけることができるようになったわけではない。

 

何を見ても「これはバブルなのではないか?」と疑心暗鬼になったのだ。

(*どうでもいいが、ここでもこのブログの「キーセンテンス」となる、「記憶の不可逆性」が出てくる)

 

「ただほど怖いものはない」や「うまい話には裏がある」というのも、われわれを保守的な考えに誘ってくるのだろう。

 

新型コロナウイルス」といった疫病や、度重なる災害もそういった考え方を後押ししているのかもしれない。

 

結果的にわれわれは、思い切った判断をしにくくなった。

 

未来の予定を、極めて悲観視するようになった。

 

積極的に「リスク」を取れなくなった。

 

大阪万博」に希望を持っている人はどれだけいるのだろうか?

 

「今後の日本経済」に希望を持っている人はどれだけいるのだろうか?

 

そうなると、「バブル」という考えを教えるのが得策なのかどうかは、疑問である。

 

もう一度「バブル」を作り上げよう!くらいの方がいいのではなかろうか?

 

少なくとも、「バブル」を知っている人には、「バブル」に記憶を消すしなかいが、その方法はない。

 

我々は「バブル」という概念に縛られている、という意味で、「自由を失った」と言えるかもしれない。

 

 

最後に

逆に我々はこの30年で何を得たのだろうか?

 

思いつくのは、個人個人のニーズにあった「エンターテイメント」であろう。

 

極めて専門的な、行き届いたサービスである。

 

我々は、各々が好きなものを、「自らの手で」「気軽に」かつ「自由に」楽しめるようになった。

 

我々は「30年の孤独」を手に入れた。

 

本日も読んでいただきありがとうございました。

明日以降も、できるだけ日記を記載します。

バランスについて〜バランスの正しい取り方〜

〜バランスとは、正しさを判断するための距離感である〜

 

目次

 

今日は、とても重たい仕事があった。

なんとか乗り越えられたのは、奇跡といえよう。

多少の投資の損失など、どこ吹く風といったところであろうか。

 

明日は、何も予定がないため、長めの散歩に行こうと思う。

 

 

今日のテーマは「バランス」についてである。

 

 

このテーマにした理由は、「何事もバランスが大事である」と、お昼にチキンカツカレーを食べながら思ったからである。

 

 

バランスとは

「バランスとは?」

「バランスは、異なる要素や要因の間で均衡が取れている状態を指します。例えば、仕事とプライベートのバランスが取れているとは、仕事と家庭生活の間で適切な時間配分がなされていることを意味します。また、栄養バランスが取れているとは、食事において必要な栄養素がバランスよく含まれていることを指します。」

 

とのことである。

 

なるほど!

 

大事なのは、異なる要素や要因の「間」で「均衡」が取れているということであろう。

 

ちなみに、以前日記で書いた私の「バランス論」は、「中央に寄せるものではなく、左右均等にばらけさせる」というものである。

 

「左右均等であれば、ばらけていた方がいい」と言い換えることもできる。

 

しかし、「ばらけているほど、バランスを取るのが難しい」とも言える。

 

 

バランス至上主義

誰かに何かのアドバイスを求められたとしよう。

 

特に頭が回らない時や、何も思いつかない時は、とりあえず

「バランスを大切にした方がいいと思う」

と答えておけば、丸くおさまるだろう。

 

「バランス」とは、万能薬である。

 

誰かに何かを注意するときも、

「バランスに気をつけてほしい」

と言えばいいし、

 

誰かを褒めるときも、

「バランスがいいね」

といえばいい。

 

「バランス」を挟むだけで、あらゆる「コンプライアンス」に対応している、玉虫色の回答になる。

 

「バランス」という言葉をつけるだけで、発言の「バランス」が取れる。

 

 

バランスの問題点

バランスの問題点は何か?

 

例えば、先に述べた

「左右均等であれば、ばらけていた方がいい」

を中心に考える。

 

それは、「バランス」が「ミルフィーユ」であることだろう。以上。

 

と言われても、「?」となるだろう。

(*最近「」をよく使うが、これもバランスの失調であり、ともすれば日本語の乱れかもしれない)

 

ミルフィーユとは?」

ミルフィーユは、フランス語で『千層』という意味です。料理の世界では、通常はパイ生地やクレープ、フィロ生地などを使って作られた、複数層になった菓子や料理を指します。以下略」

 

ということである。

 

いまだに「?」だろう。

 

 

ミルフィーユについて

全章で、全く「バランス」の問題点を触れなかった笑。

 

真面目に語る。

 

例えば、一日仕事を16時間するとする。

バランスを取るために、家族サービスを8時間するとする。

 

ここでは、仕事と家族サービスのバランスは適切だと仮定する。

しかし、これでは問題があるのは、自明であろう。

当然のことながら、「睡眠」の時間が取れていない。

 

「仕事」と「家族」のバランスは取れても、「睡眠」という「バランス」の軸が生まれてきて、「バランスは取れているか〜?」と訴えかけてくる。

 

そして、この「バランス」は無限に生まれてくる。

 

これは、我々が「社会」を形成しているからであろう。

 

そしてこのことこそが、生きるということであろう。

 

万物の根源はバランスである。

 

 

バランスと多様性

昨今話題の「多様性」について、どのように考えればいいのか?

 

「多様性」とは、一般的な意味での「バランス」が取れていない状態であろう。

 

「個性」とも少しニュアンスが違うように思う。

 

前述の「左右均等であれば、ばらけていた方がいい」という考えでいけば、「多様性」を認めるのは、大切なのだろう。

 

しかし、「ばらけているほど、バランスを取るのが難しい」というのも、間違ってはいないような気がする。

 

「多様性」に関しては、ここまでにしておく。

 

それは「多様性」という言葉は、とても繊細だからだ。

 

「多様性」という言葉自体、「バランス」を取るのが、極めて難しいといえよう。

 

 

正しいバランスの取り方

最近ゴルフにハマっているので、ゴルフの例を多用する。

 

ゴルフの上達に必要なものは何か?

 

これは仮説段階であるが、多分、

『余計なことをしないこと』

であろう。

 

YouTubeなどでは、「これをすればスイングが良くなる」という動画がたくさんある。

しかし、繰り返しになるが、大切なことは余計なことをしないことである。

ただでさえ余計なことをしているのに、その上に余計なことをすると、訳がわからなくなる。

 

自然に行う余計なことを「クセ」と名付ける。

 

この「クセ」を取り除くということは、ものすごく難しいのである。

 

ひとは誰しも「クセ」を持っている。

 

誰しも「クセがすごい!」のである。

頭の中に、千鳥を浮かべるのも、一種の「クセ」である。

 

ゴルフでいえば、腕に力が入るであったり、大きく振ってしまうであったりだ。

これを、コツコツと練習で取り除いて行くしかない。

 

そう考えると、

「ばらけているほど、バランスを取るのが難しい」

というのを少し変えて、

「母数が多いと、バランスを取るのは難しい」

といえよう。

 

そして、

「バランスを取る時は、シンプルな方がいい」

とも言える。

 

 

考え方のバランスの取り方

考え方にも「クセ」があろう。

 

認知行動療法なんかは、この「クセ」を修正する、または認識するのだろう。

 

では、ゴルフの例との違いは何か?

 

これは、私の日記では幾度となく出てきた考えであるが、

 

「記憶は不可逆的である」

 

ということである。

 

話は逸れるが、時間も記憶の副産物であり、記憶が不可逆である以上、タイムスリープもできない。

また、AIの強みは、記憶力よりも忘却力である、という考えにつながる。

(*いつかの日記で書いているので、興味がある方はご覧ください。)

 

では、考え方のバランスはどう取るのか?

 

それは、AIが最初に教えてくれた、「異なる要素や要因」を取り入れることである。

 

平たい話が、知識の偏食をしないようにしようということだろう。

 

ちなみに、4月3日の(2024年3月の名言集)内で触れた、「6対4理論」もこのセオリーに立脚している。

 

ざっくり説明すると、自分が正しいと思っていることを、「6割は正しく、4割は間違っている」と考えるのである。

 

心理学的にいうと、「自分自身に対して両面提示を心がける」と言い換えてもいい。

 

 

理系へ

私の日記のテーマが相対性理論であることも、バランスを取るためである。

 

圧倒的に理系の知識が不足している。

 

文系理系問題について話すと長くなりそうなので、明日のテーマにするかもしれないし、しないかもしれない。

 

今日の話を、理系の方にわかりやすく記載しておく。

 

1=1≠1=1≠2

 

(999+1)=1000≠(1001ー1)≒1001

 

√√√・・・√バランス=i

 

といったところであろう。

 

数式の中に、今日の日記と真逆のことを入れ込んでみたので、ぜひ汲み取ってもらいたい。

 

 

保留事項(*備忘録)

バランスと先入観

バランスと前提知識

バランスと正義

バランスと弾劾裁判

バランスと振り切っている

バランスと市場

バランスと価値

バランスと生存戦略

バランスとバカンス(今日の日記の「バランス」を「バカンス」に置換しても成り立つのではないか?)

 

 

最後に

今日は重い仕事があった。

 

そのご褒美として、大好きなチキンカツカレーを食べた。

 

しかし、減量途中であるのに、チキンカツカレーを食べた。

 

チキンカツカレーを食べた後は、仕事を頑張れた。

 

今、とても眠いので、ジムにはいけそうもない。

 

さて、チキンカツカレーを食べたことは、正しかったのか?

 

バランスとは、正しさを判断する際の「距離感」なのかもしれない

 

バランスの数だけ正解があるのか?

正解の数だけバランスがあるのか?

 

 

本日も読んでいただき、ありがとうございます。

「クリック」していただくことで、あなたにもいい「バランス」が訪れるでしょう。

膨張について〜膨張という視点から、相対性理論を思いついてみた〜

〜物事を客観的にみる簡単な方法は、他人に見てもらうことである〜

 

目次

 

今日は仕事を頑張って来ました。

明日も頑張ります。

以上。

 

小学生の日記か!

 

それは置いておいて、明日は心理的な負担が大きい仕事が入っている。

なんとか乗り越えたいが、乗り越えなかったらどうしようかということを、今から想定しておこうと思う。

 

最近、ゴルフに行っているせいか、そこそこ食べても太らない。

ありがたいことだ。

寝る前に、スクワット50回、腕立て30回、プランク40秒を日課にしている。

また、ストレッチも欠かさず行っている。

何が原因で太らないのかはほんとうにわからない。

 

 

今日のテーマは「膨張」についてである。

 

不人気の相対性理論回である。

 

 

ここまでの相対性理論

いろんなことを考えてきた。

時間は存在するのか?

「今」と「過去」「未来」とでは、なぜこんなにも違うのか?

音とは何か?

光とは何か?

などなど。

相対性理論回をカテゴライズするのもいいかもしれない。

(*相対性理論回のカテゴリーを作りました!)

 

 

「宇宙が膨張している」の誤解

以前、『宇宙は何でできているのか(村山斉著)』を読んだ。

この本が面白かったため、ブログのタイトルを「文系が自力で相対性理論を思いつくためのブログ」とした。

 

この本の中で、宇宙は膨張していると記載していた。

 

膨張とは何か?

 

「膨張とは?」

「膨張は、物体や空間の大きさ、体積、または量が増加することを指します。これは物質が加熱されたり、圧力がかかったり、化学的変化が起こったりすることによって生じる場合があります。一般的に、膨張は温度が上昇するとより顕著になります。」

 

とのことである。

 

近い言葉に、「宇宙は広がっている」というものがある。

 

私は、「宇宙は広がっている」というのと、「宇宙は膨張している」というのが、同じものと考えていた。

 

しかし、これは誤解であろう。

 

 

「宇宙が膨張している」の具体例

「宇宙は広がっている」と言われたときに、どう考えるか?

 

例えば、東京駅と新大阪駅をつなぐ新幹線があるとする。

 

これに、「宇宙が広がっている」を当てはめると、

「東京駅から博多駅まで開通した」

となるだろう。

 

しかし、「宇宙が膨張している」を当てはめると、

「東京駅から新大阪駅までのままである」

となろう。

 

 

「宇宙が膨張している」の真意

では、「東京駅から新大阪駅までのままである」ときに、膨張しているとは、どういうことなのか?

 

これは、「東京駅」と「新大阪駅」の大きさが、等しく増大しているということである。

 

もちろん、線路も車両も乗客も等しく増大している。

さらに言えば、東京都も大阪府も、その他の都道府県も、等しく増大している。

 

ここで、最も重要なことは、その大きさを測るための「ものさし」も増大している。

 

よって、我々は増大していることに、気がつけないのだ。

 

 

「宇宙が膨大している」を使って、相対性理論を自力で思いついてみる

では、どうやって宇宙は膨大しているのか?

 

ここからは、お得意の憶測である。

しかも、今まで以上に、雰囲気の要素が高くなる。

よく言えば、ここからも、これまでも、あくまで仮定の話である。

 

宇宙が膨大する仕組みは、「宇宙がダークマターを吸い込む(栄養としている)から」である。

 

我々は、ダークマターを吸い込んで、膨張し続けているのである。

 

ここで仮に、東京都の膨張が一時的に止まったとする。

この現象を、仮に「臨界」と呼ぶ。

するとどうなるか?

 

当然、東京都とその他の地域の大きさの比率が変わってくる。

 

特に、東京都と接しているところには、極めて大きなギャップが生じる。

 

前述の例では、新幹線の線路はズタズタに破壊されるだろう。

ここに、極めて大きなエネルギーが生じる。

還元すれば、この東京都が膨張するはずだった部分が、取り出せれば、エネルギーとなろう。

 

 

どれだけのギャップが生じるか?

仮に、一秒間にAcmだけ膨張するとする。

仮に、体積は球状に膨張するとする。

 

そうなると、膨張率は

4/3πA3となる(A3はAの3乗)

 

瞬間的な膨張率は、これを微分して

4πA2(A2はAの2乗)

となる。

 

よって、式としては

E=4πA2となる。

 

これに、膨張するときに、使われるべきであった(還元すれば、膨張されずに取り出された)エネルギーの計数をZとすると

E=4πZA2

となる。

 

 

結論の問題点と微調整

もちろん、いくつかの問題点がある。

仮に問題点がなければ、それこそノーベル賞であろう。

 

一番の問題点は、この仮説は体積の膨張である。

よって、「なぜ膨張が止まると、質量が軽くなるのか?」に回答できていない。

 

適当な仮説をすると、

『宇宙は膨張し続けている。そして、重くなり続けている』

とするのがよかろう。

 

そうなると、「臨界」というのは、

『膨張と重くなることを、一時的に中断する活動』

となる。

 

臨界のときに、熱が発生する理由もよくわからない。

さらに、適当に仮定して

『膨張と、重くなることと、高温になることを一時的に中断する活動』

としてもいいだろう。

 

しかし、熱が発生するのであるから、

『膨張とは、熱とダークマターを使って、膨張し重くなること』

と仮定した上で、

『臨界とは、膨張と重くなることを一時的に中断する活動』

であり、

『そのときに使われるはずであった(使われなかった)熱を、取り出すことができる』

としても、いいかもしれない。

 

素人の疑問なのだが、何かしらの化学変化が起こったときに、熱が発生するメカニズムは明らかになっているのだろうか?

 

 

このブログの注意点

相対性理論回には必ず記載しているのだが、ここでも記載しておく。

 

このブログは、文系が自力で相対性理論を思いつくブログである。

 

相対性理論に明るい方は、「いい線いってる!」であったり「全然違うよ!」と楽しんでほしい。

 

相対性理論に暗い方は、「先に答えを見てくる!」であったり「私も考えてみよう!」と楽しんでほしい。

 

 

最後に

相対性理論回の需要はない。

 

よって、自己満足回となろう。

 

自分も満足はしていないのだが。

 

今まで、「時間の存在」を否定することが、相対性理論に近づくと思っていた。

 

しかし、今日の仮説が正しければ、「時間」は存在することになる。

 

仮説が正しいということは、一体全体何を意味するのだろうか?

 

 

本日も読んでいただきありがとうございます。

おそらく、最後まで読まれた方は、ほとんどあなただけです。

せっかくですので、「クリック」をお願いします。

2024年3月の名言集〜名言の思いつき方を添えて〜

〜物事を批判するときに、最も必要なのは「論理的な根拠」ではなく「代替案」である〜

 

目次

 

今日は、雨がしとしとと降っていた。

雨は嫌いだ。

雨が嫌いなのを治すには、水資源問題に直面している国に行くしかないだろう。

新たに赴任して来た方から、本場のレモンケーキをもらった。

大きかった。

その人は、社会人になっても、陸上の800mの試合に出ているらしい。

800mをより早く走るために、ジムでのトレーニング、食事制限などを行っているらしい。

「走るために、努力する」、そしてそれが継続できる、というのは、私には信じられない。

足が速い人は、羨ましい。

 

 

 

今日のテーマは「3月の名言集」である。

 

やはり名言については、毎月まとめることとした。

ちなみに、岩波国語辞典によれば、名言は「ーを吐く」と使うらしい。

そして「吐く」とは「口に出すこと」らしい。

 

この名言のまとめ会を「吐き出し」と名付けようと思うが、いかがだろうか?

 

 

2024年3月の名言一覧

1時間椅子に座っていると寿命が22分縮まるというのは、寿命が38分伸びるというわけではない

 

ざんぎり頭を叩いてれば、コンプラ違反の音がする

 

色々なものの見方があるのは、それだけ色々な立場があるからである

 

バランスをとるとは、真ん中に集めることではなく、左右均等にばらけさせることである

 

親孝行は自己満足のひとつである

 

こだわりを持つのは大事である。しかし、こだわりがあると言われるのは悪口である

 

利益を追求することへの偏見はある

 

占いは、そこらへんのどんな学問よりも歴史がある

 

誰に対して謝るべきなのかを間違えてはないらない

 

AIの強さは、瞬時に記憶できることよりも、瞬時に忘却できることである

 

プテラノドンが絶滅したことは、今日の空にプテラノドンが飛んでいないことの説明にはならない

 

人間は、並べる生き物である

 

つよいカブ よわいカブ そんなのひとのかって ほんとうにつよいトレーダーなら すきなカブで かてるようにがんばるべき

 

いつの時代の人も、時間の矢面に立たされている

 

ハラスメントの防止に必要なのは、責任の制限である

 

読書は勉強である、勉強は投資である、投資はギャンブルである

 

近道が最適であれば、それは王道になり、近道ではなくなる

 

申開きができるのであれば、過程と結果は同等である

 

昔、科学は夢を見せてくれた。今、科学は現実を見せてくる

 

意識を無意識にするのが練習である

 

言葉の乱れは、言葉の柔軟性である

 

得意なことと、得意になりたいことは全く別物である

 

もっとも簡単な現実逃避は、初心に帰ることである

 

天使と悪魔の違いは、自分自身の立場である

 

身体にいいお菓子はない

 

 

名言の総括

最近の傾向としては、その日の「テーマ」に即したものが多かった。

 

本質的なものも多かったのではないかと思う。

 

2月の末から3月2日あたりにかけて、雑な名言が散見された。

 

その後はしっかりと修正できていたように思う。

 

 

名言論〜名言の思いつき方「6対4理論」〜

自分で「名言」というのが、なんか虚しい。

 

それは置いておいて、名言を考えるときに意識していることは何か?

 

 

1番重要なのは、『6対4理論』である。

 

 

なんだそれは?となるだろう。

それもそのはず、私のオリジナルセオリーである。

 

まずは、自分が正しいと思っていることを「6割は正しい、しかし4割は間違っている」と仮定する方法である。

 

次に、では4割の間違えはなんなのか?と考えていく。

 

ちなみに、ここで新たに思いついたものも、「6割は正しく、4割は間違っている」と考える必要がある。

 

 

例えば、「りんごは赤い」という考えがある。

おそらく大半の人は、少なくとも99%以上は正しいと思っているだろう。

ここを6割正しく4割間違っていると仮定する。

では、4割の中にどんな間違いがあるのか?

 

有名な例だと、「私が見ている赤というのは、本当にみんなの知っている赤なのだろうか?」というものだろう。

次に「りんごをどのように定義するのか?」というものも浮かぶかもしれない。

「青リンゴ」は存在自体が、命題の反論になりうるだろう。

 

このような形である。

 

今回の問題点は「りんごは赤い」という命題の深さがなかったことだろう。

この「問題点」というのも、私が辿り着いた結論が「6割は正しく4割は間違っている」という過程に基づく。

 

あとは、皆さんの頭の中にある、「これは100%正しい」と思っているものを、『6対4理論』に当てはめればいいだろう。

 

 

今月の名言ベスト3

個人的に気に入った名言を3つ挙げる。

ついでに、何を考えていたかもちょろっと述べたいと思う。

 

 

第3位

『ことばの乱れは、言葉の柔軟性である(3月25日 電話について)』

 

これは、「ら抜き言葉」について考えていたときに思ったことである。

個人的には、「ら」を抜いた方がわかりやすいと考えているので、積極的に「ら抜き言葉」を使っている。

文法上の正確性よりも、意思疎通の正確性の方に重きを置いている。

 

この言葉はもともと、

 

「言葉の乱れは、言葉の柔軟性と、思想の強硬性によって生まれる」

 

であった。

 

しかし、棘があるため、マイルドにした。

 

 

第2位

『いつの時代の人も、時間の矢面の立たされている(3月17日 風について)』

 

これは、私が結果論かどうかを判断するときに、極めて重視している考え方である。

よって、3月22日の『今について』の内容と直結している。

 

名言を思いついた後、しばらくして、それについて深く考えたみたいくなり、日記の『テーマ』に昇格することがある。

これは、その最たる例であろう。

 

似た言葉に、

『後からならなんとでも言える』

という言葉がある。

 

両者の違いは、「いつの〜」は過去完了的な使い方であり、「後から〜」は現在完了的なものだと感じる。

 

「後から〜」でなんとでも言っている時点は、おそらく今であろう。

 

そう考えると、英語をはじめとした文法には、時制に重きが置かれている。

 

これは、裏を返すと、日本語の時制が緩いとも考えられるかもしれない。

 

両者の違いが、どこで生まれ、今どんな影響を与え、今後どうなるのかを検討してみるのも面白いかもしれない。

 

 

第1位

『読書は勉強である、勉強は投資である、投資はギャンブルである(3月19日 矛盾について)』

 

これは、3月13日(学問について)で少し触れた、心理会計を思い出したからである。

 

読書をする人としない人の差を、心理会計で説明できないかと、思ったのである。

 

これに関しては、後日、『読書』について(仮)あたりで述べたいと思う。

 

繰り返しになるが、このように後日のテーマの参考になるものは、貴重であると思う。

 

 

ワースト1位

『つよいカブ よわいカブ そんなのひとのかって ほんとうにつよいトレーダーなら すきなカブで かてるようにがんばるべき(3月15日 投稿中止)』

 

これは、投資で大損をした日の名言である。

 

元ネタはもちろん、ポケモンのカリンである。

 

何も考えられずに、とりあえず思いついたものを書き殴った。

 

名言もさることながら、日記の内容もひどい。

 

このような名言(および日記)は、できれば生み出したくない。

 

 

最後に

名言は、一瞬で思いつくこともあれば、日記を書く以上に時間がかかることもある。

 

しかし、名言は数を打つということも大事だと思う。

 

よって、できるだけ毎日、思い浮かばせている。

 

幸運にも、いくつもの名言が思い浮かぶ日もある。

 

しかし、不思議なことに、ストックをしておいたそれらが、翌日以降に採用されることはない。

 

名言も、足が速い。

 

 

本日も読んでいただきありがとうございました。

一つでも面白いと思った名言があれば、『クリック』をお願いします↓。

2024年3月の総括

〜自分探しとは、結局他人のことを知ることである〜

 

目次

 

最近、日記を書けなくて申し訳ございません。

言い訳としては、送迎会や歓迎会、ゴルフ大会など盛りだくさんです。

少し落ち着いてきたので、再開したいと思います。

念のため触れておきますが、選抜高校野球で優勝された、健大高崎のみなさま、おめでとうございます。

そして、群馬の方々、おめでとうございます。

散々、群馬をいじったことをお詫びします。

同時に、今週のテーマはやはり「群馬」の方が良かったのではないかとも思っています。

 

 

ところで、常体敬体問題は難しいです。

特に、申し訳ないときに、常体(〜である)はなんとなく変な気がします。

よって、ここまでは申し訳なさのため、敬体(〜です)を使っています。

しかし、敬体を常体に戻すのは難しいですね。

ここで、思い切って常体に戻すとする。

 

 

 

今日のテーマは「2024年3月の総括」である。

 

 

3月の総論

3月のトピックスとしては、あまり本を読まなかったことだろう。

これは、気温が高くなり、外で活動する(主にゴルフ)ことが増えたからだろう。

散歩の頻度も増えている。

しっかり体を動かしていきたい。

ブログのタイトルが、「フィジカル的なアプローチで、相対性理論を思いついてみた」になるかもしれない。

 

ここ3日ほど、日記を書けていなかった。

罪悪感はそこそこあったが、毎日書くことを義務づけることが正しいかどうかはわからない。

ただ、毎日書いたほうが、継続はしやすいのだろう。

ちなみに、本はあまり読まなかったが、今月はいろんな方のブログを読んだ。

色々な考えがあるんだな!と、気づいたことがたくさんあった。

正直なところ、他の方のブログを読む日と、自分のブログを書く日を交互にしようかとも思ったが、やめた。

理由は特にない。

 

 

今月のもっとも自信のある日記

今月の途中から、目次を作った。

理由は、文章が長くなってきたからである。

また、目次を作ったほうが、文章全体のバランスをとりやすいからである。

 

本題に戻る。

今月のもっとも自信のある日記は、

 

『光について』である。

 

barbar.hatenablog.jp

 

相対性理論を思いつくと言うのが、このブログの趣旨である。

しかし、相対性理論に近づこうとする日記は、人気がない。

おそらく、全く中身がないことを、小難しく書くからであろう。

考えてみれば、人気がないのも納得である。

私としては、相対性理論関係の日記を書くのはとても楽しい。

 

読まれる日記を書くか、好きなことを書くか。

永遠のテーマであろう。

 

好きなことを書いた日記が読まれるのであれば、こんなに幸せな事はない。

読まれようとした日記が読まれないのであれば、こんなに不幸な事はない。

 

 

3月に読んだ本

今月読んだ本でもっとも面白かったものは、「舟を編む三浦しをん著)」であった。

内容も良かったのだが、オリジナリティの高い読み方をしたため、異常に刺さった。

 

ざっと説明すると、

 

「辞書を編纂する話」という知識だけで、自分であらすじを作る。

本を読む。

自分の作ったあらすじを振り返る。

 

という読み方である。

 

ぜひ、お試しいただきたい。

 

 

そのほかでは、「時をかける少女筒井康隆著)」を久しぶりに読んだ。

主人公の名前は、こうだったっけ?と思った。

多分、大きく時をかける場合、名前でバレることに気がついた。

遠い未来に行く時は、あまり名前を名乗らないようにしようと思う。

 

あまり刺さらなかったのは、「運転者(喜多川泰著)」であった。

話が面白いかどうかか?ではなく、考え方に共感できなかったからかもしれない。

なぜか?

考え方のスタンスが似ているからか、全く違うからのいずれかであろう。

どちらかはわからない。

似ていれば、「そんなこと、すでに思いついている」となろう。

違っていれば、「そんな考えにはならない」となろう。

難しい問題である。

今回は、どちらだったのか、今でもわからない。

 

 

今月の各指標

現時点での今年の漢字は、先月に引き続き「株」である。

一応、次点で「賭」である。

どちらも投機的な意味であるが、「賭」には最近のスポーツ界を激震させたニュースも含まれるだろう。

 

今月もっとも聴いた曲は「社会のゴミカザマタカフミ(3markets[])」である。

 

テレビはほとんど見なかった。

 

サブスクで新しい作品も見なかった。

今もっとも見たいのは、PSYCHO-PASSの新しい映画である。

 

 

今月の総括

3月に点数をつけるとすれば、「50点」である。

 

日記を毎日継続することはできなかった。

しかし、日記の内容に関しては、そこそこ面白いものが多かったのではないかと自負している。

 

散歩やゴルフといった、運動も増えた。

 

ただし、先月に同じく、勉強に関しては全くできなかった。

4月こそは、しっかり勉強を開始しようと思う。

 

仕事も、あまりうまくいかなったと思う。

手応えがなかった。

 

投資に関しては、かなりのマイナスであった。

 

 

4月の目標

前述の通り、勉強習慣を再び取り戻したい。

 

そのせいも相まって、日記が短くなるかもしれないが、仕方のないことだろう。

 

しかし、物語を書く訓練はしてみたいと思う。

 

運動習慣は身についたものの、食事が適当になってしまっていたため、しっかり減量を意識した食事にしたい。

 

読書は、そこまで強く意識しないが、読みたいと思った本があれば読もうと思う。

 

 

最後に

毎年、時間が経つのは、早いと感じる。

 

現に、今年もすでに3ヶ月が経過している。

 

体感的には、1月19日くらいである。

 

しかし、日記を読み返してみると、その日に何を考えていたかがまざまざとよみがえる。

 

確かに、1日1日、しっかりと歩いてきたと実感できる。

 

日記をつけて、しっかり読み返すことだけが、時間の加速を防ぐ唯一の方法かもしれない。

 

問題は、過去の日記を読んでいると、あっという間に時間が過ぎることだ。

 

 

本日も読んでいただきありがとうございます。

よろしければ、「クリック」をお願いします。

あんこについて〜今週のテーマの背景を読み解く〜

今週のお題「あんこ」

 

〜身体にいいお菓子はない〜

 

目次

 

今日は、一日中ゴロゴロしていた。

昼過ぎにゴルフの打ちっぱなしに行ってきた。

このあと、ジムに行くか検討中である。

 

 

 

今日のテーマは「あんこ」についてである。

 

 

要するに、以前書いた「来週のテーマ」のフィードバックである。

 

願わくは、先週のブログ↓を読んでいただきたい。

barbar.hatenablog.jp

 

 

*こちらは↓最後にだけ読んでいただきたい。

barbar.hatenablog.jp

 

「あんこ」について

「あんことは?」

「あんこは日本の伝統的な甘味です。主に小豆を砂糖と一緒に煮て作られます。和菓子やパンの具としてよく使われます。」

 

とのことである。

意外と、あんこの作り方を知らなかった。

 

 

「あんこ」の異常性

あんこは、日本食の象徴であると考える。

 

一つ想像してもらいたい。

 

 

『しょっぱくて、辛い「あんこ」があると、どう思うか?』

 

 

多分、たいていの人は、気持ち悪いと思うだろう。

 

ただし、どちらかといえば、「豆」というのは、しょっぱくて、辛いものであろう。

 

ひよこ豆のスープ、ひよこ豆のカレー、えんどう豆やグリーンピースといったものは、どちらかというとしょっぱいだろう。

 

そしてそれが、世界の当たり前なのだ。

 

そう考えると、異邦人的な立場で考えると、豆が「甘い」状態の、「あんこ」いうのは、さぞかし気持ちが悪いだろう。

 

日本人でいうと、ご飯にメープルシロップと、チョコレートソースをかけて食べるようなものであろう。

 

 

和菓子の限界について

完全に私見なのだが、和菓子のレパートリーは極めて少ない。

 

和菓子は、おおまかに、「砂糖」と「あんこ」と「卵」で構成されている。

 

特に、「落雁」や「氷砂糖」など、砂糖そのもの!というものも多い。

 

先日(3月26日『光について』)のオチで、

相対性理論を思いついたら、次はなにを目標にしようか?あえて、自力で和菓子でも思いついてみようか?』

とした。

 

この理由は、前述の通り、和菓子のレパートリーが少ないからである。

 

さらに、「ナタデココ」がはやり、「タピオカ」が流行った。

 

次にはやるのは、「新食感和菓子」であると想像している。

 

そこにビジネスチャンスがあるのではないかと思っている。

 

ちなみに「天使のわらび餅」については、触れないでおく。

 

 

「あんこ」の英才教育

我々は、あんパンマンで育っている。

 

あんぱんを食べると元気になるというのは、小さい頃からの刷り込み教育の賜物だろう。

 

アンパンマンがいなければ、あんぱんが今の時代に存在しているかも怪しい。

 

仮に存在しているとすれば、物語に出てくる、張り込みをしている刑事のおかげだろう。

 

アンパンマンには申し訳ないが、私はこし餡の方が好きである。

 

 

『「あんこ」について』について

今週のテーマについて、

 

『いい天気の日に桜を見ながら食べるものといえば、あんこの入った甘いもの!

今年の春は、どんなあんこを食べますか?』

 

とのことである。

 

前者に関しては、団子の一択ではなかろうか?

スタンダードがどうなのかわからないが、私は三色団子といえば、中に「あんこ」が入っていないものを想像する。

三色団子に「あんこ」はいらないという考えである。

 

後者に関しては、難しい。

言い換えると、春に食べるあんこである。

もなかは、夏に食べるイメージである。

大福やたい焼き、おしるこは冬に食べるイメージである。

 

春に食べるあんこが思い浮かばない。

 

 

「今週のテーマ」の予想過程について

一応春本番なので、

「お花見で食べたいもの」

という候補を挙げていた。

 

そこそこニアピンであろう。

 

これは、コロナもすっかり明け、宴会も復活していることを想定した。

 

個人的には、お酒を飲みながら、焼き鳥を食べたいと思う。

 

甘いものであれば、チョコレートが食べたい。

 

 

私の予測の問題点

では、私の何が問題だったのか?

 

それは、『いい天気の日に桜を見ながら食べるものといえば、あんこの入った甘いもの!』

 

という考えが、そもそもなかったことである。

 

これには、三色団子には「あんこ」が入っていないという固定観念が影響しているのかもしれない。

 

念のため、確認しておくが、『いい天気の日に桜を見ながら食べるものといえば、あんこの入った甘いもの!』というのは、一般的なものなのだろうか?

 

仮に一般的でないとすれば、テーマ設定をした 側に問題があろう。

 

気になるのは、「あんこの入った甘いもの」とぼやかしている点である。

 

テーマを決めた人は、本当に「あんこ」の入った「三色団子」を想定したのだろうか?

 

 

4月4日は⚪︎⚪︎⚪︎の日!

念のため、調べてみたところ、衝撃の事実が分かった。

 

4月4日は、『どら焼きの日』らしい。

 

理由は、「桃の節句(3月3日)と端午の節句(5月5日)に挟まれているから」や「4と4を合わせた幸せ(4合わせ)」などがあるらしい。

 

これは、完全に盲点であった。

 

アンパンマンと同等に渡り合う、子供向けキャラクターの「ドラえもん」を完全に失念していた。

 

「あんこ」のイメージがあるキャラクターと言われて、「ドラえもん」が出てくる人は、多いのだろうか?

 

ちなみに、日本あんこ協会のマスコットキャラクターがいるようだが、真っ先にこのキャラクターが出てくる人はいないだろう。

 

いずれにしても、私の敗北である。

 

しっかり反省して、次に繋げたい。

 

次に繋げるために、少し「読み」を入れてみる。

 

今週のテーマから、何か読み取れないか?

 

もしかしたら、「これからは、お花見では、どら焼きを食べましょう!」という、テーマ設定者の意図が組み込まれているのかもしれない。

 

そうなれば、テーマを決めている人は、「どら焼き職人」である可能性が高いといえよう。

 

では、なぜ、「どら焼き職人」が、ブログの「今週のテーマ」を決めているのだろうか?

 

いくら考えても、わからない。

 

 

最後に

今週のテーマに答えていなかったと思う。

 

私がこの春、いちばん食べたい「あんこ」は、『胡麻団子』である。

 

胡麻団子』は、素直に美味しいと思う。

 

ただし、この選択肢は、おそらく『春巻き』に引っ張られて出てきた。

 

春に巻かれた。

 

 

本日も読んでいただきありがとうございます。

いい天気の日に桜を見ながらすることといえば、『クリック』!皆さんの『クリック』を募集します。