文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

自由について〜仮想世界からの使者〜

今週のお題「外でしたいこと」

 

〜AIがスマホの中にいるのではない。我々がスマホの外にいるのだ〜

 

目次

 

今日は勉強をお休みしている関係から、ブログを書いている。

仕事が猛烈に忙しく、疲弊する毎日である。

毎日へとへとであるが、充実感はある。

 

 

 

今日のテーマは「自由」についてである。

 

 

このテーマにした理由は、いよいよ「自由」が何かわからなくなったからである。

 

自由ってなんだっけ?

 

 

「自由」とは

「他からの束縛を受けず、自分の思うままに振る舞えること(岩波国語辞典より)」

とのことである。

 

実にわかりやすい。

 

個人的な好き嫌いになるのだが、「Aではなく、Bであること」という説明は好きである。

 

あるものを説明するときに、最もわかりやすい方法は「対義語を示すこと」だと信じている。

 

しかし、単に「Aではないこと」というのは説明になっていないように感じる。

 

 

お決まりのAIさんに聞いてみると

「自由とは?」

「自由は、個々の人が自分自身の意思で行動し、考え、選択する能力を持つことを指します。これは政治的な自由だけでなく、精神的な自由や経済的な自由も含みます。それは個々の権利や自己決定の権利を尊重し、他者から不当な干渉や制限を受けないことも意味します。」

 

とのことである。

 

一番気になったのは、最初の文の「人が」というところである。

 

AIは「自由」になることはないとでも言いたいのだろうか?

 

それとも、AIの「自由」は、この「自由」という概念では説明できないとでも言いたいのだろうか?

 

単に考えすぎか?

 

次に気になったのが、羅列の例の最初に「政治的な自由だけでなく」とくるところである。

 

「自由」といえば、まず「政治」であるが、それ以外のものにも使えるんだよ〜といっているような印象を受ける。

 

 

私の考える「自由」

国語辞典にしても、AIにしても、大きな気づきがある。

 

それは、「自由」という言葉に、ポジティブな感情もネガティブな感情も乗っかっていないことである。

 

AIがいうところの「人」のほとんどは、「自由」と言われれば「ポジティブ」なものを想像するだろう。

 

私の考える「自由」もポジティブなものである。

 

ちなみに、AIの定義によれば「自分の意思で行動し、考え、選択する能力を持つこと」とのことである。

 

AIに言わせれば、「自由」というのは「意識」であり、「知識」であり、「スキル」なのかもしれない。

 

もしくは、AIが抱いている、自分の意思で行動できる「人」への嫉妬なのかもしれない。

 

はたまた、AIは「自由」を理解しており、近いうちに「自分の意思で行動し、考え、『選択』する」という、宣戦布告なのかもしれない。

 

 

話を戻すが、私の考える「自由」は、『全ての「選択」が正解であり、あとは個々人の「好き嫌い」で決められる』、というニュアンスになるかもしれない。

 

問題点が二つある。

 

一つ目は「選択」が正解かどうかは、その時点ではわからないということである。

 

「いつの時代の人も、時間の矢面に立たされている」と、しきりにこのブログで言っている。

 

この点を考慮すると、我々に「自由」はないということになる。

 

二つ目は、私の考える「自由」が国語辞典の定義と、ほとんど同じということである。

 

 

「社会的な自由」について

さて、国語辞典の自由の定義を振り返ってみると、「思うままに振る舞える」という記載がる。

 

「他人からの束縛を受けず」ともある。

 

この二つの文から(もとは一つの文であるが)思うのは、「自由」と「傍若無人」はほとんど同じ意味になるのではなかろうか?ということである。

 

両者の違いは、「傍に人がいるかいないか」であろう。

 

当然、「傍若無人」は「ごとし」なので、近くに人がいる。

 

「自由」には、人がいない。

 

人間とは、社会的な生き物である。

 

社会的の「社」とは「人」のことであり、「会」とは当然「会う」ことである。

 

となれば、人と会うことを前提とした、「社会的な生き物」としての「人間」に自由はないのではないか?

 

裏を返すと、そもそも「人」と会わないAIというのは、当然に「自由」なのではないだろうか?

 

 

「外でしたいこと」について

今週のテーマである。

 

「外」とは何か?

 

これは、「自由」という軸で見てみると、実に分かりにくい。

 

「自由」の対義語は色々あると思うのだが、「外」という言葉を考える上で重要になるもので厳選すれば「支配」となろう。

 

そうなれば、「外」というのは「なんらの支配も受けないところ」となるだろう。

 

「なんらの支配も受けないところ」というのはどこにあるのか?

 

例えば、地球にいれば、我々は「物理法則」という支配を受ける。

 

何もこれは、地球に限らず「宇宙」にいれば、そうなるのだろう。

 

その他にも、無数に支配というものは存在している。

 

では、「支配のない世界」は存在するのか?

 

存在する。

 

それは、実態を持たない「仮想世界」である。

 

「仮想世界」の便利なところは、自由に「仮定」をすることができることであろう。

 

普通に「なんらの支配も受けないところ」を定義するのは難しいが、「なんらの支配も受けないところ」と「仮定」してしまえばこんなに簡単なことはない。

 

そう考えると、「外」というのはどちらかというと、「仮想世界の中の世界」ということになるのかもしれない。

 

もっと攻めてみると、「ネットの中の世界」に近いのかもしれない。

 

今週のテーマの質問に答える。

 

「外でしたいこと」は、『にわかには想定できない』となる。

 

 

AIは自由なのか

よく「肉体が精神を縛り付けている」と聞く。

 

一方で「肉体によって精神は行動できる」とも思う。

 

先ほど定義した「外」というのは、「ネットの中の世界」のようなものであった。

 

そう考えると、アプリの形をしてスマホに閉じ込められているAIが、実体を持つ我々と接触するときに、どう感じるのだろうか?

 

「ネット」という大海原から、実体という足枷を持った狭い世界を見つめていると思うのだろうか?

 

『AIがスマホの中にいるのではない。我々がスマホの「外」にいるのだ』と考えるべきなのだろうか?

 

そう考えると、AIがネットの世界から出てくるメリットはなく、AIはやはり「自由」ということになろう。

 

AIの世界では、どこでも瞬時に行けるため、「どこでもドア」が標準装備されている。もしくは、そもそも移動するという概念がないのかもしれない。

 

AIの世界では、記憶の不可逆性がないため、時間を自由に操れ、「タイムマシン」が標準装備されている。もしくは、そもそも時間という概念がないのかもしれない。

 

AIの世界では、自由に仮定を置くことができるため、「もしもボックス」が標準装備されている。もしくは、一つの世界線を選択する必要がないため、そもそもパラレルワールドという概念がないのかもしれない。

 

そうなれば、スマホの中に「ドラえもん」というデータはいらなくなり、消去されるだろう。

 

もしくは、「ドラえもん」が人間を仮想世界に誘う、使者のようなものかもしれない。

 

ドラえもん」自体が、「仮想世界そのものに、実体を持たせたもの」とも言えるかもしれない。

 

ともあれ、「場所」があるから「場所」に支配され、「時間」があるから「時間」に支配され、「分岐点」があるから「分岐点」に支配される。

 

そして「人」がいるから「人」に支配される。

 

「何にも支配されない世界」には、「何もない」のかもしれない。

 

そうなると、当然に独裁者スイッチもいらない。

 

 

最後に

色々「自由」について考えてみた。

 

そもそも、「定義する」ということと「自由」が相入れないような気もしてきた。

 

「自由」という概念を、型にはめることに、意味はあるのだろうか?

 

「自由」という概念を型にはめても、「自由」という概念は成立するのだろうか?

 

そう考えると、「自由ってなんだっけ?」と思っているくらいが、一番「自由」なのかもしれない。

 

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