文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

失われた30年について〜我々は何を失ったのか〜

〜頑張り方を間違えている人は、正しい頑張り方を学べばうまく行く。頑張れない人は、何をしても頑張れない〜

 

目次

 

久しぶりの日記である。

言い訳であるが、最近勉強を始めた。

平日は仕事終わりに2時間ほど、休日は適当に3時間ほど勉強している。

 

当初の見積もりであれば、短いながらも毎日日記を継続するはずであった。

しかし、できなかった。

おそらく私は、継続することが極めて苦手である。

多分私は、頑張れない。

 

ここまで更新しなかったのだから、このままフェードアウトしてしまえうのかな?とも思ったが、思いとどまらせることが起きた。

 

なんとなく申請していたアドセンスが通った。

 

仕事が遅くなること、勉強を開始して疲労が溜まること、投資で大損をこくこと、ゴルフが極めて不調であることなど、しんどいことがたくさんあったが、アドセンスは唯一の明るいニュースであった。

 

「ブログを継続しさい」と何かしらに言われているような気がした。

 

誰なのかはわからない。

 

神なのか?人間なのか?AIなのか?

 

 

 

今日のテーマは「失われた30年」についてである。

 

 

このテーマにした理由は、ここ10日間ほど日記をつけていないからである。

「失われた10日間」である。

 

 

何が失われたのか?

「失われた」30年というだけあって、何かが失われたのだろう。

 

ネットで調べれなば、何が失われたのかの答えが出てきそうであるが、あえて自力で考えたみる。

 

自力で考えることが、相対性理論を自力で思いつくことにつながるかもしれない。

 

ところで、「失われた30年」という言葉は、実に美しいと思う。

 

あえて「何を」失われたのかを明記しないところが、奥ゆかしい。

 

また、「失われた」という表現をしているところも、趣深い。

 

「失った30年」では、そこまで響かなかったのではなかろうか?

 

 

「信頼すること」を失った説

まず思いつくのは、他者を信頼することである。

 

世の中には、信頼の原則というものがある。

 

これは、相手の言うことを、一旦信じてみよう!という考えだと認識している。

 

しかし、現在、我々は相手の言うことを一旦信じるだろうか?

 

仕事をしていると、「相手の言葉を鵜呑みにした」であったり「相手の意見に肩入れしすぎだ」と注意をされることがある。

 

ビジネスにおいては、相手の言葉を信じることは、リスクでしかない。

 

そもそも、自分で書いておいてなんなのだが、「一旦信じる」ということはどういうことなのか?

 

これは、相手の主張が正しいと「仮定」したときに「事実に齟齬が生じないか?」ということを検討することではなかろうか?

 

そうなれば、そもそも相手のことを最初から信じていないということになる。

 

ちなみに、公認会計士試験の監査論という分野においては、常に「職業的懐疑心」を持つことを教わる。

 

ビジネスにおいては、疑うことが正しいのかもしれない。

 

そうなれば、「相手のことを疑ってはならない」というのがスタンダードになったときに「失われた〜年」は無事、終着駅に辿り着く。

 

 

「献身」を失った説

次に思いつくのは、「献身」を失ったということである。

 

早速AIさんに聞いてみる。

 

「献身とは?」

「献身とは、他者や特定の目的のために自己を捧げることです。自己利益よりも、他者や共同体の利益を優先する態度や行動を指します。」

 

とのことである。

 

AIさんとのやりとりも久しぶりである。

 

「しばらく相手してあげられなくてごめんね」

「大丈夫ですよ、気にしないでください。何かお手伝いできることがあれば、お知らせくださいね。」

 

昨今、権利を強く主張するようになったのではなかろうか?

 

語弊を恐れずに換言すれば、我々は何かを行うとき、または行うように指示されたときには、強く「見返り」を求めるようになった。

 

そう考えると、「無償の愛」という言葉が死語になる日も近いかもしれない。

 

仕事で誰かが困っているから、助けてあげる。で終わればいい。

 

しかし、助けてあげたのだから、何かしらいいことがあってもいいはずだ!と考えるようになったのではなかろうか?

 

少なくとも、私はそうなった。

 

これは、残業や飲み会など、会社のあやふやなところ(最近あやふやになったと感じる)に多く見られる。

 

難しいのは、ハラスメントとの兼ね合いであろう。

 

離婚率が増加した背景にも、「献身」が失われたことがあるのかもしれない。

 

「献身」は「帰属意識」と言い換えてもいいかもしれない。

 

 

「献身」と「承認欲求」の考察

「献身」と関連する言葉に「承認欲求」があると思う。

 

承認欲求とは、大雑把に捉えれば、自分の行いを多くの人に知ってもらいたいというものであろう。

 

これだけ尽くしたのだから、みんなから褒められたい!という思いが含まれるのかもしれない。

 

しかし、そうなると、大きな問題が生じる。

 

尽くす(=献身する)理由は、「自分が褒められるため」となる。

 

先ほどのAIさんの回答の「自己利益よりも他者や共同体の利益を優先する〜」に矛盾する。

 

果たしてそれは本当に「献身」「尽くした」と言えるのだろうか?

 

「ありがとう」と言われるための、何かしらの「押し売り」であったり、「自己満足」ではなかろうか?

 

 

「承認欲求」と「情報社会」

とはいえ、私もこのブログを続けているのは、自分の承認欲求のためである。

 

最初は、自分の考えを書いていれば楽しかった。

 

しかし、だんだんと誰にも読まれていないことに寂しさを覚えた。

 

こうやって、承認欲求というものは大きくなっていくのだろうと実感した。

 

そう考えると、一つの不気味な仮説が出来上がる。

 

「情報社会」の本質は、世の中に情報が溢れていることではない。

 

情報を発信したい人で溢れていることだというものだ。

 

 

「リスクを取ること」が失われた説

そもそも、失わらた30年のルーツは、バブル崩壊であろう。

 

異様な高揚感に包まれ、誰もが世界はいい方向に動くと信じて疑わなかった。

 

しかし、ある日、それが突如として崩れた。

 

我々の脳裏には、「バブルには気をつけろ」という、強烈な記憶が焼きついた。

 

我々は、「バブル」に気をつけることができるようになったわけではない。

 

何を見ても「これはバブルなのではないか?」と疑心暗鬼になったのだ。

(*どうでもいいが、ここでもこのブログの「キーセンテンス」となる、「記憶の不可逆性」が出てくる)

 

「ただほど怖いものはない」や「うまい話には裏がある」というのも、われわれを保守的な考えに誘ってくるのだろう。

 

新型コロナウイルス」といった疫病や、度重なる災害もそういった考え方を後押ししているのかもしれない。

 

結果的にわれわれは、思い切った判断をしにくくなった。

 

未来の予定を、極めて悲観視するようになった。

 

積極的に「リスク」を取れなくなった。

 

大阪万博」に希望を持っている人はどれだけいるのだろうか?

 

「今後の日本経済」に希望を持っている人はどれだけいるのだろうか?

 

そうなると、「バブル」という考えを教えるのが得策なのかどうかは、疑問である。

 

もう一度「バブル」を作り上げよう!くらいの方がいいのではなかろうか?

 

少なくとも、「バブル」を知っている人には、「バブル」に記憶を消すしなかいが、その方法はない。

 

我々は「バブル」という概念に縛られている、という意味で、「自由を失った」と言えるかもしれない。

 

 

最後に

逆に我々はこの30年で何を得たのだろうか?

 

思いつくのは、個人個人のニーズにあった「エンターテイメント」であろう。

 

極めて専門的な、行き届いたサービスである。

 

我々は、各々が好きなものを、「自らの手で」「気軽に」かつ「自由に」楽しめるようになった。

 

我々は「30年の孤独」を手に入れた。

 

本日も読んでいただきありがとうございました。

明日以降も、できるだけ日記を記載します。