文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

風について〜日本に存在するブラックホール〜

〜いつの時代の人も、時間の矢面に立たされている〜

 

目次

 

朝起きたら、猛烈にメンタルが回復していた。

微笑ましいことだ。

本を読むか、2日間書いてなかった日記を書くか少し迷って日記を書いている。

いつも夜に日記を書き始める。

大体30分〜1時間くらいで書くのだが、昨日のように調子が出ないこともある。

今日は、確実に日記を作りたかったので、朝の時間に書いている。

今日は、昼からジムに行こうと思う。

しかし、久しぶりにゴルフの打ちっぱなしに行ったため、全身筋肉痛であり、行かないかもしれない。

 

 

 

というわけで、今日のテーマは「風」ついてである。

 

 

このテーマにした理由は、風が強いからである。

 

 

風とは

「風って何?」

「風は大気中の空気の移動です。地球の気温や気圧の違いによって引き起こされ、さまざまな要因によって形成されます。風は地球上の気象情報の一部であり、植物の種子の散布や気温の調節など、多くの役割を果たしています。」

「空気と大気の違いは何?」

「空気は地球の大気の一部であり、大気は地球を覆う気体の層全体を指します。つまり、大気は空気を含む空間全体を指すのに対して、空気はその中の特定の気体を指します。」

 

とのことである。

わかるようなわからないような感じである。

 

ちなみに、わたしはあまり浮力を理解していない。

少しずつ勉強中であるが、相対性理論を考える上では重要になると思う。

 

 

風が見える人

以前の日記で多少記載したが、パイロットは航行中に、地表近くの煙突の煙を見て、風の方向や強さを推測するらしい。

同じ要領で、もしくはさらに強い能力を鳥たちは持っているのかもしれない。

虫に紫外線が見えるように、鳥にも風を見る方法があれば面白いかもしれない。

念のため断っておくが、わたしは鳥ではないため、鳥の考えていることはわからない。

 

少し話は逸れるが、医学書に「病気が見える」という本がある。

これは顕微鏡で病原菌を見るということではない。

症状や検査所見、予後等その病気の全容がわかるということである。

よって、風が見えるの「見える」というのは、文字通りの「目で見えること」と、「わかること、理解すること」という意味の両方で考えている。

 

そう考えると、等圧線を解読できる気象予報士も風が見えるのかもしれない。

 

ゴルファーや野球の外野手も風が見えるのかもしれない。

 

特に後者は、風を小脳あたりで見ているのかもしれない。

 

 

概念としての「風」

最近、麻雀のMリーグを見ている。

その中で、公式実況の日吉辰哉さんという方が、「風」という言葉を使う。

詳しい定義はないが、「運」や「流れ」といった言葉であろう。

 


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この「風」には追い風も向かい風もある。

 

この「風」を読むことができるのはどんな人か?

 

まず、経営者等の船頭さん(航海士は本来の意味の風になろう)は「風」がよめる必要があろう。

まさに今、1番触れたくないことだが、優秀な投資家も「風」がよめるのだろう。

 

しかし、逆に考えれば、「風」に乗ることができた経営者や投資家だけが残っているのかもしれない。

「風」を積極的によめるのではない。

結果的に、「風」に乗ることができた人だけが残る、という仮説である。

そう考えると、「風」に乗ることができなかった(わたしを含め泣)人は消えていく。

 

この概念を一言で言い表すと、「風化」ということになるのかもしれない。

実体の持たない、概念の世界に逃げても、わたしを「風化」させようと、「風」は追い剥ぎのように追ってくるのである。

そして、この「風」は「追い風」ではない。

 

 

 

文学的な風

「今日のわたしの心には、風が吹いている」

 

この文章が、ポジティブなものなのか、ネガティブなものなのかはわからない。

追い風なのか、向かい風なのかがわからないからである。

しかし、「風が吹いている」と言われれば、第一印象は追い風であり、ポジティブなものだろう。

 

 

「今日のわたしの心には、強い風が吹いている」

「今日のわたしの心には、弱い風が吹いている」

 

この文章も、ポジティブなものなのか、ネガティブなものなのかはわからない。

この文章には、時間が必要であり、いつと比べて強いまたは弱いのかを定義する必要があろう。

また、方向も大事である。追い風なのか向かい風なのかもわからない。

見方を変えれば、主観が強く、情報が少ないということかもしれない。

 

 

「今日のわたしの心には、冷たい風が吹いている」

「今日のわたしの心には、温かい風が吹いている」

 

この文章が、ポジティブなものなのか、ネガティブなものなのかはわかりやすいように思う。

強い、弱いに比べて、主観が弱いということなのだろうか?わからない。

ただし、この文章のポジティブ・ネガティブを決めるのは、「温度」である。

よって、風を吹かせる必要はない。

 

 

「今日のわたしの心は、晴れている」

「今日のわたしの心には、雨が降っている」

「今日のわたしの心には、雪が降っている」

 

ここらへんの文章は、なんとなく、その人の心情を表していると思う。

雨と雪の違いは、後を引くか否かというところにあるのかもしれない。

 

 

「今日のわたしの心には、水素分子が舞っている」

 

この文章はわからない。

何を言いたいのかもわからないし、科学的に正しいのかもわからない。

もっと言えば、晴れているのか、雨が降っているのか、雪が降っているのか、湿度が高いのか、風が舞っているのかもわからない。

 

 

風と「空気」

風とは空気の移動である。

そう考えると、少しだけ拡大解釈をすれば、風を読むことは「空気を読む」ことになろう。

 

 

人間における「風」

気象庁のホームページには、風が吹く理由について「空気はとなり同士でいつも“おしくらまんじゅう“をしているようなものなのです」と書いてある。

 

話を極めて大きくしよう。

 

前提として、「いつの時代の人も、時間の矢面に立たされている」というのがわたしの持論である。

 

その上で、今、おそらく過去で1番多くの人類が生息していると思う。

*日本の人口が減っているのは、何を意味するのかはわからない。

 

そう考えると、自然に導き出せるのは、「人間もおしくらまんじゅうをしているのではないか?」ということであろう。

 

ここ数世紀で、交通網が異常に発達しているように感じる。

 

これは、人間がおしくらまんじゅうを始めたからであり、人間が移動する(風になる)必要が出て来たからではなかろうか?

 

 

東京の風

ただし、前述の考えには大きな矛盾点がある。

 

それは、日本人が東京に集まるということである。

 

人間同士が、人口密度を争っておしくらまんじゅうをしているのであれば、東京「から」猛烈な風が吹くのだろう。

 

しかし、実際は東京「に向かって」非常に大きな風が吹いている。

 

我々は、何に押されて東京に流れるのだろうか?

 

夢か?金か?欲望か?需要か?

 

全て同じ意味のようにも思うが・・・

 

 

最後に

日本人の「東京への風」を遮る候補が、リモートであろう。

 

今後、リモートが定着すれば、日本人の東京への移動が少なくなるかもしれない。

 

そうなれば、東京に行く理由は「お金」や「需要」といったことになるのかもしれない。

 

そうならなければ、東京自体に何かしらの引力があるのだろう。

 

食べ物かもしれないし、ファッションかもしれないし、エンタメかもしれない。

 

しかし、これらのコンテンツも、全国展開等により、東京を離れることができれば、「東京への風」は弱まるかもしれない。

 

それでも「東京への風」がやまないのであれば、東京は「ブラックホール」なのかもしれない。

 

東京が「ブラックホールなのか?」を考える上では、少なくとも、光、エネルギー、重力、質量等を理解しなければいけないのだろう。

 

「東京がブラックホールである」ことを証明できると、相対性理論が理解できる気がした。

 

 

本日も読んでいただきありがとうございます。

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