文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

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学問について〜心理会計で遊んでみる〜

プテラノドンが絶滅したことは、今日の空にプテラノドンが飛んでいないことの説明にはならない〜

 

目次

 

今日は特に何にもない一日だった。

ただ、そこそこ忙しかった。

忙しい日というのは、終わってみれば虚無になるのかもしれない。

この日記が早く書き終わったら、ジムに行こうと思う。

金曜日に少し重めの仕事が入ったが、金曜日の開放感と相殺されるので、問題ないだろう。

 

 

 

今日のテーマは「新しい学問」についてである。

 

 

 

このテーマにした理由は、そこそこ忙しくて、お昼を食べ損ねたからである。

そもそも、「お昼を食べ損ねる」という現象が、なぜ起こるのかを、心理会計という新しい学問であれば解き明かせそうな気がしたからである。

 

 

心理会計について

心理会計とは、

「個人や組織の行動や意思決定における心理的要因を考慮した会計の一分野です」

とのことである。

 

早い話が、ダジャレである。

最近では、ダジャレではなく、韻を踏んでいると言うのかもしれない。

 

会計の「勘定」と、心理的な「感情」を融合させたものである。

 

有名な話でいくと、海外旅行で豪華なご飯を食べる人が多いと思う。

これは、豪華なご飯が「食費」ではなく「旅費」といった、エンタメ科目に含まれるからである。

 

よくある例としては、

・喫茶店はどの科目か(飲食費にしては高くないか)?

・キャンブルで得たお金と、必死で稼いだ残業代は違うか?

といったものが挙げられるだろう。

 

かなりユニークな新しい学問であろう。

 

個人的に注目しているのは、Kindleのunlimitedなどの、使い放題プランの心理会計である。

以前、ブログで記したように、使い放題プランには、独特の心理が働くと思う。

 

barbar.hatenablog.jp

 

ちなみに、個人的な見解では、使い放題プランは、蟻地獄科目である。

なんでも見放題、読み放題となると、すべての自由を手に入れた気になる。

しかし、解約するときは、手に入れたすべての自由を身ぐるみ剥がされる。

都度課金とは違い、何も残らない。

すべての自由には、何も見ない、読まないという自由も含まれている。

よって、使用頻度が低くても、解約には至りにくいのではないか?

 

「自由でいるためのコスト」といったところだろうか?

または「無限の可能性を維持するコスト」であろうか?

もっと踏み込めば、「中毒性のあるコスト」ともいえよう。

タバコに似ている。

 

 

新しい学問について

数日前の日記で、学問を「進撃の巨人」を例に出して説明したような気がする。

 

世の中には、新しい学問と古い学問があると思う。

 

古い学問とは、文学や医学や法律学といったものである。

新しい学問とは、ここ数十年〜数年の間に出てきたものと定義する。

 

わたしは、新しい学問に関しては少し消極的な立場である。

 

新しい学問には、次のいずれか、またはいずれも必要になると思う。

 

一つ目は、目新しさである。

画期的な目新しさが必要である。

そこそこの目新しさであれば、誰の目も引かず、人気は出ない。

さらには新鮮であることも重要であろう。

つまりは、鮮烈である必要がある。

 

二つ目は、ニッチ度である。

古い学問が手を出せないギリギリの位置にあり、かつ、需要があることが必要である。

 

三つ目は、社会への還元である。

学問は学べば終わりというものではない。

その知見を生かして、社会問題の解決に繋げなければならない。

 

こんなところであろう。

これらを満たすようなものは、なかなかないような気がする。

 

 

新しい学問と古い学問

ちなみに、わたしが新しい学問に少し消極的なのは、古い学問が「カルチャー」で新しい学問が「サブカルチャー」といった印象を受けるからである。

要するに、あくまで印象の問題である。

歴史の問題と言えるかもしれない。

ただし、「カルチャー」を本格的に学ぶ機会というのは、大学の学部生のときしかないような気がする。

 

「カルチャー」を学ぶというのは、基本的には面白いことではないと思う。

では、なぜ大学で「カルチャー」を学べるのか?

それは、周りの学友と、ある種の「ユーフォリア(陶酔感)」を味わうことができるからである。

あるカルチャーの知見を深めることで、先人たちに近づき、追い抜き、ついには世界を支配(理解?)したかのような「ユーフォリア」を得るのである。

 

これが、新しい学問では得られにくいのではかいかという、私見である。

 

ちなみに、専門学校も新しい学問との印象を受ける。

しかしこれは、社会で活用できるスキルを身につけるというポジティブな理由によるものである。

ユーフォリア」よりも「ベネフィット」なのだ。

 

実際、大学で学んだことのほとんどは役に立たないと思う。

「大学で学んだ、マルクス経済学の価値観を営業の場面でも活用し・・・」などという就活生はいないだろう。

ユーフォリアは、就活ですべて紫色の霧になる。

その経験が、人生を豊かにするのではないだろうか?

 

 

最後に

今日はこのあとジムに行きたいので、駆け足で日記を書いた。

 

「新しい学問を選択する現象を心理会計的に考える」という、たこが自分の足を食べるような検討をしてみても面白かったかもしれない。

 

それにしても、いつも以上に暴論だったような気がする。

 

しかし、急いでいたので許してもらいたい。

 

唯一の心残りは、「お昼を食べ損ねるという現象」の検討を、し損ねたことだろう。

 

本日も読んでいただきありがとうございました。

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