〜地図を持っているのであれば、それはもはや迷路ではない〜
今日は、ダラダラと1日を過ごしてしまった。
しかし後悔はない。
今日のテーマは「命」についてである。
我々の命の重みに、違いはあるのだろうか?
そう考えたときに、どれだけ他人に影響を与えたかで判断することがあると思う。
もちろんこれは間違っていないが、命の重さを考えるには、もっと主観的に考えるべきではないかと思う。
私の命は、私自身の精神や肉体と強く結びついている(もはや、同一ものもかもしれない。)
そのため、私以外の誰にも知られていない努力や挫折、楽しみや憎しみといったものが存在し、そういった事柄も命の重さにつながるのではないかと思う。
そういう意味では、誰もが自分自身の命に一番向き合っており、自分自身の命が一番重いと考えるのが自然なのではないか?
では、若かった頃の自分と今の自分、そしてもっと歳をとった時の自分とでは、命の重さは変わるのだろうか?
これは難しい。
例えば、事故に遭った際に受け取れる損害賠償金額で言えば、若かった頃の自分の方が多いだろう。
しかし、この金額は、逸失利益であり、命の重さとはイコールではないのだ。
ここで、昔から思っていることがある。
むかしむかし、あるところに、サルかに合戦という物語がありました。
親の復讐を果たし、サルをやっつけた蟹は、悠々自適に暮らしていました。
ある日、進化したサル(人間)が、網で蟹の親子を捕まえました。
人間は、蟹の親子を真水につけ、五右衛門風呂に入れ、関節という関節を全て逆方向に折り、皮膚をはいで脳みそまで食べ尽くしました。
おしまい。
先に言っておくが、私はかにが大好きであり普通に食べている。
ここで言いたいことは、命の重さを考えたときに、人の命を重く捉えてはいないかということである。
江ノ島に行き、しらす丼を食べるとき、一体幾つの命を犠牲にしているのか?
我々人間の命と、そのほかの生命体の命が等しく大切であるというのならば、今私がいなくなれば、一体どれだけの命が救われるのだろう。
我々人間が背負った罪は、想像以上に重いのかもしれない。
花束を貰って喜び、魚釣りを趣味とし、クリスマスには美味しそうにチキンを頬張る一方で、戦争で怪我をした人間の子供映像に心を痛める。
もちろん、これは正常な精神の持ち主なのだろう。
そのことは分かった上で、再度問いたい。
我々の命の重みに、違いはあるのだろうか?