文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

勝利至上主義について〜競争社会を生きる〜

〜天国に行く簡単な方法は、この世で地獄を味わうことである〜

 

今日はジムに行かなかった。

今年に入ってから自堕落な生活が続いているので、どこかで断ち切りたい。

 

今日のテーマは、「勝利」についてである。

 

 

勝利の数だけ敗北がある。

 

ここのところ、弱い自分に打ち勝っているかと言われれば、負けっぱなしである。

この場合、いったい誰が勝者なのだろうか?

 

細かいことはおいておいて、今日は「勝利」とはなんなのかについて考えたい。

 

例えば、アスリートであれば、常に勝つか負けるかといった世界にいる。

勝利によって待遇が変わり、勝利によって道がひらけてくる。

 

我々はどうかと言われると、アスリートほどではないにしろ、やはり受験や就活、出世争いと言った競争の中にいる。

 

最近では出世をしたくない人が増えているようである。

私は、できれば出世したいと考えているため、出世に消極的な方の考えがよく分からない。

しかし、出世を諦めることが、競争社会からの脱却を意味するのであればそれはそれで幸せなのかも知れないし、私自身も見習えるものならば見習いたい。

 

では、なぜ競争社会になるのか?

これは、我々が自由に夢を追いかけることができるからであると考える。

夢を持ちましょうといえば聞こえはいいが、これは紛れもなく、競争社会で戦いましょうと同意義である。

人生は椅子取りゲームだと何かで聞いたことがある。

より良い椅子に座るためには、戦わなければならないのである。

 

この先、あらゆる仕事をAIが行い、我々が労働をしなくても生活していけるとなったときに、我々は競争社会から脱却できるのか?

少なくとも私には難しいと考える。

というのも、仕事がなくなったとしても、私の趣味はゴルフや将棋、麻雀と言った勝敗がある程度明白につくものだからである。

どこまで行っても、誰かと勝負するということが、本能に焼き付いているのである。

 

ここで少し人生を見つめ直したい。

世の中には、完全に自己満足のために趣味を持っている人がいると思う。

どうすればその様になれるのか?

これは非常に難しい。

時間のかかる趣味はそれだけ技能に差がでてしまい、この「差」という考え自体が、誰かとの勝負になってしまっているからだ。

上手くなりたい、や、できる様になりたいというのは、潜在的に他の誰か、または昔の自分との勝負になってしまっているのだろう。

一方で、時間のかからない趣味であれば長続きしないのではないかと思ってしまう。

 

このような考えを持っている時点で、人生はハードモードなのかも知れない。

 

言い換えれば、次のような考えになるかも知れない。

今まではポジティブな人というのは、勝利の回数が多い人だと思っていた。

しかし、実のところ、ポジティブな人というのは、競争社会とうまく距離をとり、勝負しなくても満足できる人なのではないかと。

 

 

今日のところはここまでにしておこうと思う。

このテーマは、うまくいけば、自分の人生のターニングポイントとなるかも知れないので、頭の片隅に入れておこうと思う。

 

 

最後に、前から気になっていたことがある。

ジャンケンで勝つのと、マラソンで勝つのはどちらが簡単なのか?

 

当然、ジャンケンで勝つ方が労力はかからない。

しかし、ジャンケンで勝つのはほとんどが運の要素である。

 

一方で、マラソンで勝つためには、少なくともマラソンを走らなければならない。

しかし、しっかりトレーニングを積めば、自力で相手に勝てる確率が上がる。

 

もちろん、設問がおかしいので答えはないと思う。

ちなみに私は、少し悩んでマラソンと答えると思う。

しかし、瞬時にジャンケンで勝つ方が楽であると答えられる人の方が、人生は楽なような気がした。