文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

「舟を編む」を読んで〜新しい本の読み方と天才〜

〜AIの強さは、瞬時に記憶できることよりも、瞬時に忘却できることである〜

 

目次

 

今日は火曜日だった。

毎日の曜日報告がいるのかどうか疑問である。

今日はジムに行かなかった。

自分の体重よりも、行っているジムの株価が気になる。

 

 

 

今日のテーマは「天才」についてである。

 

 

このテーマにした理由は、『舟を編む(著:三浦しをん)』を読んで、1番最初に考えたことだからである。

(*今日の日記には、「舟を編む」のネタバレが非常に多く含まれていることを、あらかじめ断っておきます。)

(*また、私の強引な仮説も多分に含まれていますので、ご注意ください。)

 

 

 

新しい読み方について

今回、「舟を編む」を読むに際して、初めての試みを行った。

「タイトル」と「扱うテーマ(今回でいえば、辞書の編纂)」だけを頭に入れた状態で、あらすじを考えてみるというものである。

考えたあらすじは、以下の日記の中にあるので、良かったら読んでいただきたい。

 

barbar.hatenablog.jp

 

結果として、物語を非常に楽しめたので、おすすめする。

特に面白い物語を書きたいと思う人には、とっておきの読書術だと思う。

早速、次に読む物語を探している。

ただし、ミステリーには向かない方法だと思う。

誰が被害者かもわからないからである。

ミステリーの情景描写だけであらすじが書けるのであれば、ミステリーを書けるのと同じである。

 

さて、本題に入る。

私のあらすじは、全体を通して見れば、そこまで悪くなかったように思う。

ただ、致命的な欠点があったので、振り返っていきたい。

 

 

舟を編むについて

物語を読んでいて、強く思ったのは、「ほとんど俺じゃん」ということである。

我ながら幸せなやつである。

適当なテーマを決め、定義をこちょこちょするという訳のわからない日記を書いている。

 

ちなみに、登場人物の一人が、『こころ(著:夏目漱石)』の遺書が長いという感想を述べていた。

私も全く同じことを、高校一年生の時の読書感想文で書いた。

誰もが一度は通る道なのだろうか?

 

このように共通点があると、嬉しくなる反面、自分が作者の完全下位互換なのではないかと、不安にもなる。

 

色々考えさせられた文章を挙げていく。

「辞書はどうしても、男性視点になってしまいがちですね」(P.47 松本先生)

「我々は、辞書にすべてを捧げねばなりません。時間も。お金も。生活するために必要な最小限を残し、あとはすべて辞書に傾注せねばならない。家族旅行。遊園地。言葉は知っていますが、わたしは実際を知らない。そういう生きかたを理解してくれる相手かどうかは、きみ、大変重要なことですよ」(p.49 松本先生)

「まず、無駄な言葉が多すぎます。辞書に執筆者の主観はいりません。事実のみを列挙すべきです。それから、教授の原稿には旧かな表記がありませんね。引用している和歌も現代かなづかいになっていて、原典に即していない。」(P.131 主人公)

記憶とは言葉なのだそうです。香りや味や音をきっかけに、古い記憶が呼び起こされることがありますが、それはすなわち、曖昧なまま眠っていたものを言語化するということです」(P.217)

 

 

天才について

私が作ったあらすじには、致命的な欠点があったと述べた。

 

それは、天才の描き方である。

辞書の編纂者ということだったので、天才が出て来るという読みは当たった。

そして、天才を説明する最も簡単な方法は、学生時代に浮いていることだということも概ねあっていた。

作中には『「変わったやつ」という立ち位置だった。学生生活においても会社員生活においても、どこか遠巻きにされていた。(P.36)』という記載がなされている。

 

ただし問題はここからである。

天才は夢を持たない。

少なくとも、凡人に理解できるような夢は持たない。

これが非常に大切であり、私のあらすじの致命的な欠点である。

 

私のあらすじでは、天才に夢があり、それに向かってもがくような設定にした。

しかし、天才は天才として出てきて、天才として振る舞うのである。

「学生時代に浮いていた」という表現は、その枕詞のようなものであって、本質ではない。

天才の思考は誰にも理解できないのである。

 

 

天才の作り方

では誰が、天才を天才にするのか?

 

それは、脇役である。

我々は、脇役を通して、天才の天才的な部分を観測するのである。

 

ちなみに、脇役の条件は、天才を天才であると信じて疑わないことであろう。

 

このことが、「舟を編む」でいちばん大きな気づきであった。

 

私のあらすじでは、天才が自分の視点で物語を進めた。

しかし、前述の通り、天才の思考は誰にも説明できないので、天才の視点で物語を進めるのは不可能である。

 

舟を編む」は基本的に、第三者的な視点で物語が進む。

しかし、内容的には、

・前半は、脇役と天才との対比(脇役目線から、天才を定義する)

・中盤は、優秀な新人の登場と成長、台頭(新人目線から、天才に並ぶ)

となる。

 

繰り返しになるが、天才の物語を描くには、代弁者となる脇役が必要である。

そして、語弊を恐れずにいえば、主人公は天才であるが、読者は脇役の視点に座らせられる。

 

シャーロックホームズにはワトソンがいた。

探偵ガリレオには刑事の草薙さんがいた。

 

ここからは(ここまでも)大きな仮説であるが、これはミステリーに限らない。

 

以前見たアニメ映画の「BLUE GIANT」もそうであったように思う。

 

スラムダンク」もそうだと思う。

最初は桜木軍団として、途中からは小暮先輩や彦一として、物語に入り込むのではなかろうか?

スラムダンクのすごいところは、陵南戦の際に、読者を彦一の目線にすることだと思う。

 

 

天才の着陸

では、物語はどのようにしてエンディングを迎えるのか?

 

ここからは(ここまでも)ゴリゴリの私見であるが、「舟を編む」では、天才が天才ではなくなった。

今までは、辞書の編纂に特化していた天才が、我々凡人のような目標や望み、悩みを持つようになる。

 

・終盤は、天才が天才でなくなる(元天才目線)

 

となる。

 

ようやく読者が、天才だったものの視点に座ることができる。

 

最後に我々が主人公になって、物語の終末を迎える。

 

これは(これまでも)仮説であるが、「スラムダンク」もそういった着陸をしているのかもしれない。

 

孫悟飯に未来を託した孫悟空にも、そのような意味があったのかもしれない。

 

(憶測が過ぎてしまったら、申し訳ございません。自分でも少し雑な理論になったと思っています。考えがまとまったら、後日訂正します。)

 

 

アインシュタインについて

さて、ここまで、さんざん訳のわからない理論を唱えた。

 

ここからはさらに訳のわからない理論を唱える。

 

このブログの最終目的地は、「自力で相対性理論を思いつくこと」である。

 

相対性理論を発表したアインシュタインは、疑うことなく天才だろう。

 

では、この日記を物語と考えたときに、どのように着陸すればいいのか?

 

ここまで述べてきた理論でいくと、アインシュタインを天才では無くならせることが必要になる。

 

そうなれば必然と、この日記の最終目的地は、「相対性理論の落とし穴を自力で発見すること」になるだろう。

 

 

最後に

訳のわからない理論のおかげで、目的地が遠くなった。

 

しかし、そもそも自力で相対性理論を思いつくことなど、端から遠かった。

 

その距離が10光年だろうと、100光年だろうとさして大きな問題ではない。

 

いちばん大きな問題は、この物語がまだ離陸できていないことである。

 

 

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