文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

私の思考法について〜いつの日か、アインシュタインに追いつける日まで〜

〜深海魚にはこの世界がどのように見えるのだろうか?〜

 

今日も午前中はダラダラとしながら、本を読んだり考え事をしたりしていた。

流石に天気が良かったので、昼過ぎに散歩に行ってきた。

1時間ほどで7キロ程度歩いてきた。

少し汗ばんだので、遠くに春を感じた。

しかし、夜にラーメンとチャーハンを食べたので、かなり体重が増加したように思う。

 

 

今日のテーマは「思考法」についてである。

 

 

このテーマにした理由は、散歩の間中、自分の思考方法について考えていたからだ。

元々、自分の考え方が正しいのかについて疑問を持っていたので、この機会にアウトプットできるものはアウトプットしておこうと思う。

 

 

前提として、私は基本的に物事を考えている。

何も考えたくない時は、本を読む(小説に限る)か寝るしかない。

物事を考えるときには携帯のメモを使うが、昨日で言うと8つのテーマ、今日で言うと7つのテーマについて考えていた。

ちなみに過去30日のメモの数は84個であった。

日記の内容に使ったものは、メモから消しているので、実際に考えついたことはもう少し多いかもしれない。

 

ほとんどが取るに足りないものであるが、いくつか例を挙げてみる。

 

「住めば都に関する考察〜Amazonは地方の価値を向上させたのか?〜」

「相手を尊敬すること〜自分を軽蔑することとの関係について〜」

「今日という一日はいくらなのか?〜86400秒の価値〜」

「興奮することの未来〜理性社会によって淘汰される本能〜」

 

と言ったところである。

 

 

まず目の前に考えるべき問題が発生する。

そのことについて、最初に思いついたことをとりあえずメモする。

なぜ最初にそのように考えたのか?について理由を深掘りしていく。

この考えこそが、私の考えの出発点となるので極めて重要である。

この考えが大きく変わることを常に望んでいる。

 

次に、最初に思いついたことの反対意見を考える。

反対意見には、どのような根拠があるのかを考える。

 

中立的な意見を考える。

ここで初めて、一般的にはどのように考えられるのかを調べる。

最初の考えと、反対意見の列挙できなかった根拠があると、ものすごくテンションが上がる。

 

 

基本的にはこの手続の繰り返しである。

もっとも、この手続きは何年も前に、ヘーゲル先生あたりが思いついてものであろう。

 

さらに、以下の手順も織り交ぜる。

 

 

そもそも、考えるべき方向が正しいのかを考える。

昨日の日記でも少し触れたが、物事を考えようとするときに、その第一歩目は極めて重要となる。

しかし躊躇して何も考えられないと本末転倒であるため、思いついたことはひとつひとつしらみつぶしに考えるようにする。

いわば、一歩目を気軽に踏み出せる様にしている。

そのリスクヘッジとして、いつでも考えをリセットできるようメモを残している。

 

 

定期的に視座を変える。

 

視座を変える方法としては、

私がアインシュタインだったら(理系的視点)

私が鎌倉時代の農民だったら(歴史的・本能的・文化的視点)

私が22世紀から来たドラえもんであったら(SF的・超時間的視点)

私が宮沢賢治であったら(超文学的視点)

を中心に考えることが多い。

 

 

とまあこんなところであろう。

ちなみに、私は小説を読むときはさらっと読む。

しかし、新書や実用書を読むときは、常にその内容が検討の対象にならないかということを意識している。

そうこうしているうちに、あっという間に一日が終わってしまう。

 

 

休日がお湯に入れた綿飴のようにフワッと解けていくのだが、それはそれで幸せである。

 

 

目下最近の課題は、文章を上手くなるためには小説も新書と同じような読み方をしなければならないのか?ということである。

これについては、おいおい考えようと思う。

ちなみに、私の第一印象は「小説も吟味しながら慎重に読まなければならない」である。

その根拠は・・・とはじまるのが日常である。

 

 

もうひとつ落とし穴がある。

今日も夕方に、私が登録しているYoutubeチャンネルでなぞなぞが出されていた。

さっと目に入ったが故に、2時間ほど考えた。

結果、解けたので良かったが、この2時間の記憶はほとんどない。

なぞなぞは、自力で解けなければ納得できない。

重要なのは、答えを見たときに、その答えを思い浮かべられたか?ということである。

思い浮かべられないのならば、もっと早くに答えを見れば良かったとは思うものの、自力で解けなかったという後悔はない。

思い浮かべられたのであれば、なぜ自力で思い浮かべられなかったのか?というテーマでの議論とともに、大きな後悔が生じる。

一度答えを見てしまうと、答えをみる前の自分には戻れないのである。

果たして、なぞなぞを目にするのはプラスなのか、マイナスなのか?

 

 

非常にめんどくさい考え方であると思う。

しかし、このように考える人は私だけではないようにも思う。

なんなら、もっと深くめんどくさい考え方を持っている人がいるように思う。

その根拠は・・・と、またはじまった。

 

悩みの種は、綺麗な花が咲くまでしっかり育てたい。というふうに考えれば、あながちネガティブともいえないのだろう。