文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

好奇心について〜アインシュタインの背中が初めて見えた〜

〜星がたくさん見えると言うことは、自分の周りが暗いと言うことである〜

 

今日は昼過ぎまで寝ていた。

お昼ご飯にはサッポロ一番味噌ラーメンを食べた。

実に2年ぶりであった。

私は、サッポロ1番でいうと塩とんこつが好きである。

インスタントラーメン全体で言うと本店の味が好きである。

カップラーメン論争については、後日記したいと思う。

 

昼過ぎにジムに行ってきたが、散歩には行かなかった。

 

 

今日のテーマは「人間の本質について」である。

 

 

このテーマにした理由は、二度寝と三度寝の間に、人間の本質についてずっと考えていたからである。

 

 

以前、「人生を変えてくれた名言(2024年1月21日)」で記載したことの続編のような形になる。

 

ざっくりと前回の話をかいつまんでいうと、私の人生を変えてくれた名言は「一つの名言で生まれ変われるほど、人生は簡単なものではない」というものである。(願わくは、前回の名言についての日記を読んでいただきたい)

これは、私が一念発起と言った類のものが存在しないとの立場に立っていることを意味する。

何かしらを思い立ったとしても、その努力が継続するのはせいぜい3日程度であり、「三日坊主」という言葉の存在がその根拠になていると考える。

 

以上を踏まえた上で、人間とは何かということを考えていく。

昔、パスカルが「人間は考える葦である」ということを言っていた。

今日の方向性としては、私なりに「人間は〜」に続く言葉を考えようというものである。

 

 

さて、この手の選択肢の広い話題では、第1歩目が重要になってくるだろう。

下手をすると一歩も動け出せなくなるが、私は慎重さというものを重視しない。

 

まずは、前回の日記の反論から始めたいと思う。

人間は確かに、一時的な思いつきからくる長期的な努力は継続しないと思う。

しかし、世の中には努力を継続できる人もいる。

何が違うのか?

 

それは、「疑問を持ち続けられるか?」ではないかと思う。

 

例えば何かしらの職人は、どうすればよりいいものになるのか?という疑問を抱き続けている。

そう考えると、これ以上良くはならないと思ったときに、モチベーションはなくなるのだろう。

 

仕事を転々とする人も同じようなことが言えるのかもしれない。

その仕事の仕組みを完全にわかってしまえば、モチベーションがなくなるのだろう。

パワハラや人間関係は別として、「やりたいと思っていた仕事内容とは異なっていた」の本質は、案外こう言ったところにあるのかもしれない。

逆説的に、仕事が続く人というのは、抽象度の違いこそあれ、何かしらの疑問を持ち続けているのではないだろうか?

 

Youtubeも同じようなことが言えるのかもしれない。

最初から有名になりたかったという人もいるかもしれないが、最初は自分達の動画を見せて周りの反応が気になったのではないかと推測する。

しかし、周りの反応というのはだんだん固定化していくように思う。

そうなると、ベクトルは再生数や登録者数、収益額といったことに目が向かうのかもしれない。

Live配信であれば、何かしら面白いことが起きないか?という観点が入って来るため、モチベーションは確保されやすいのだろう。

しかし、過去の動画を編集してアップロードするのであれば、そういった不確定的な要素は少なくなる。

結果、疑問を持たなくなり(換言すると真新しさがなくなり)モチベーションは失われる。

思えば、これは好奇心の話がなくても成り立つため、一周回って当たり前の話であろう。

 

 

少し話は逸れるが、継続は力なり、という金言がある。

継続することができれば、大きな成果を得られるということだろう。

ここで重要なのは、これが小泉進次郎構文の亜種ではないかということである。

「ダイエットをするのは簡単である。体重と体脂肪率を下げればいいのである。」という言葉を聞いてどう思うであろうか?

それは当たり前だろう、と思う人が多いのではないかと思う。

私には「継続が力なり」という言葉が、上記の例と同じように思えて仕方がない。

もちろん「継続は力なり」が小泉孝次郎構文の亜種と考えるか否かは個々人の自由であるが、私は上記のように考えているということを念の為に繰り返してく。

しかし、私にはとってみれば、どうすれば「継続ができるか?」ということまで考えないと全く意味がないように思えてならないのである。

 

 

ここで軽い疑問なのであるが、なぜ私の日記ブログは継続しているのだろうか?

大きな仮説としては、「どうすれば文章が上手くなるのか?」「日記を書き続けていれば、文章が上手くなるのではないか?」という疑問と、「自分の考えがどこまで広がるのか?」という疑問があるからではないかということだ。

この仮説に関しては、「これ異常文章は上手くならない」「新しい考えは思いつかない」となってしまったときに明らかになるだろう。

もしかすると、疑問を持てなくなるというのはすなわち、「飽きる」ということに他ならないのではないか?

そうなると、疑問を持ち続けることが、意図的に可能なのか?ということが重要になってくる。

でないと、「継続は力なり」と同じところにしか着地できない。

 

 

ここまでで、今日の所はギブアップである。

疑問を持ち続けるということの考察は、また後日しようと思う。

 

結論であるが、現時点での私の回答は『人間は好奇心によって遠くまで歩ける生き物である』である。

 

好奇心は猫を殺すが、人間にとっては好奇心の欠落こそが大きな問題なのである。

立ち入った話をすると、好奇心がなくなれば興味もなくなり、それはうつ病をはじめとした精神疾患の入り口なのかもしれない。

 

我ながら、そこそこいいところまできたのではないかと思う。

念のため、同じようなことを考えている人はいないかと、インターネットで調べてみた。

奇しくも、私の生涯にわたってのライバルである、アインシュタインが同じようなことを言っていた。

また先を越されてしまった。

念のため言っておくが、私がアインシュタインの考えに同感したのではない。

私が自分で思いついたことと、アインシュタインが思いついたことが同じだっただけである。

とはいえ、ある意味では光栄なことである。

 

長い時間考えてきたが、意味があったのかどうなのかは疑わしくなってきた。

しかし、今ならわかる気がする。

アインシュタインがなぜ好奇心を大切にしたのかが。