文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

仕事についてその2〜仕事は楽しめるものなのか〜

〜新聞を読んだとしても、新聞を読んでいない人が多ければ、共通の話題にならない〜

 

 

今日は月曜日である。

いつもの月曜日よりも心が軽いのは、23日が祝日だからであろう。

今日はサクッと仕事をしてきた。

明日は上司との面談があるため、かなり緊張している。

今週は終わって欲しいが、明日は来てほしくないという軽い矛盾である。

 

ジムには行かなかったし、散歩にも行かなかた。

ちょっとダイエットの意識が低下しているため、明日から気を引き締めていこうと思う。

 

 

今日のテーマは「仕事を楽しむ」である。

 

 

このテーマにした理由は、月曜日だからとでもいっておこう。

 

月曜日というのは、朝は辛いが、仕事が終わればすっきりした気持ちになる。

問題は仕事に行くまでである。

 

ここまで書けばお分かりだと思うが、私は仕事が楽しいと思ったことは一度もない。

少し特殊な仕事をしているため具体的な業務内容は言えないが、パッと見た感じではスーツを着た普通のサラリーマンである。

社会的な必要性はそこそこあると自負している。

実務を通じて、ある程度の知識と専門性が身につく。

給料もそこそこである。

しかし、楽しいと思ったことは一度もない。

 

どうすれば仕事が楽しくなるのだろう?と考えたことは何度もある。

仕事が楽しくなるという類の本もたくさん読んできた。

しかし、仕事が楽しいと思ったことは一度もない。

みなさんはどうであろうか?

 

 

仕事を楽しむことは可能なのか?というテーマで議論したいと思う。

議事進行は、昨日の日記にならうものとする。

 

まず初めに、私は仕事を楽しいと思ったことは一度もないというのが、第一感(*印象のような意味の将棋用語)である。

根拠としては、仕事というのは面倒ごとを引き受けることが前提にある。

私の仕事も御多分に洩れず面倒ごとをこなすことである。

会社というところは、人間関係が極めてギクシャクしている。

正味な話、経済的な制約がなければ一瞬でやめているだろう。

楽しめる要素がない。

 

では、反対意見としてはどのようなものがあるか?

もちろん仕事は楽しめるという考えであろう。

では、この主張にはどのような根拠があるのだろうか?

これがなかなか思いつかない。

達成感や成長を味わえるということがあるかもしれない。

社会に貢献しているということが挙げられるかもしれない。

しかしどれも決定打に欠けるような気がする。

 

補足であるが、消極的な考え方として、自分に向いているであったり、頑張った分だけ評価してもらえるであったり、人間関係がいいであったりというものがある。

しかし、これらのことはマイナスが小さいということの裏付けではあるものの、プラスになるものではないように思う。

よって、仕事は楽しめるという根拠にはならないような気がする。

 

 

では、中立的な考えとはどこにあるのだろう?

これもまた難しい。

ネットで調べてみると、仕事についてはどちらの意見もあるようだ(当たり前ではあるが)。

 

 

昨日の日記に従って、いろいろな視座から考えてみる。

 

科学者は仕事を楽しんでいるのだろうか?

わからない。

優秀な若手がどんどん出てきて、ある程度の成果を出さないと研究費も割り当ててもらえないような世界なのではないかと考えると、楽しいことばかりとも言えないように思う。

気になるのだが、2002年にノーベル賞を受賞した田中耕一さんは、研究を楽しんでいたのだろうか?

もっと言えば、ノーベル賞を取りたいと思っていたのだろうか?

後日調べてみる必要がありそうだ。

 

 

では、鎌倉時代の農民は仕事を楽しんでいたのだろうか?

わからない。

彼らにはそもそも娯楽というものがあったのかもわからない。

そう考えると、何を持って仕事と考えるのかも難しくなってくる。

昔の人にとっては、生きること自体が仕事だったのかもしれない。

このことは、私の中ではそこそこ大きな発見である。

後日考えてみる必要がありそうだ。

 

 

では、22世紀からきたドラえもんは仕事を楽しんでいるのだろうか?

これこそ本当にわからない。

ドラえもんにとっての仕事とは、言葉を選ばずにいうと、AIによる仕事であろう。

つまり、人間の仕事のある程度はAIに取って代わられている世界であろう。

そうなると、AIが仕事は楽しくないと考えると、仕事をしないのではないか?

これは大きな問題である(今日1番の発見である)。

後日じっくりと考えてみる必要があるだろう。

 

 

では、宮沢賢治は仕事を楽しんでいたのだろうか?

正直これが1番わからない。

軽くネットで調べたところ「なめとこ山の熊」という作品が参考になるようだ。

私は読んだことがないため、後日じっくりと読んでみよう。

 

 

追加で、ブラックジャックは仕事を楽しんでいたのだろうか?

私はブラックジャックを読んだことはないので、詳しいことは言えない。

ただ気になるのは、彼にとって医療行為というのは仕事だったのか?ということである。

同じことになるが、大谷翔平選手にとって、プロ野球選手というのが仕事なのかということも気になる。

 

色々考えを広げすぎた。

とっ散らかって、何が何だかわからなくなってきた。

 

今日の反省点としては、「仕事」の定義があやふやだったことであろう。

経済的制約がある場合の「仕事」と制約がない「仕事」では、全く訳が違うだろう。

自分のやりたいことでお金が入ってくる「仕事」と、誰もしたくないけれども誰かがしなければならないことでお金を得ている「仕事」でも訳が違うだろう。

 

結局のところ、『立場』が重要なのだろう。

しかし、経済的な制約があり、誰もしたくないことを仕事としている人の中にも、仕事を楽しいと思えている人はいる。

世の中わからないことばかりだ。