文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

大発見について〜発見と発明の違い〜

~色々なものの見方があるのは、それだけ色々な立場があるからである〜

 

 

今日は7時に起きた。

朝から雨風が強くて、家がミシミシ言っていた。

大丈夫なのかと不安に思いながら、被害が出ないように祈っていた。

要するに、今日は何もしていない。

 

私は普段から、思いついたことをスマホのメモアプリにつけている。

以前軽く述べたが、メモの数が膨大であり、どの情報をどこに書いたのか、全くわからない状態になっている。

そのため、何かいいメモアプリはないかと探していた。

昼過ぎに、notionというアプリが流行っていることを知った。

早速試してみた。

結論を言うと、10分くらいいじったところで、私には使いこなせないと判断した。

いい決断だったと思う。

おそらく何時間いじっても、使いこなせなかったと思う。

10分で損切りできたというのは、今年一番のナイスジャッジだったと思う。

まとめると、10分間はnotionと格闘して、1430分間は何もしていない。

 

 

 

今日のテーマは「大発見」である。

 

 

このテーマにした理由は、昨日の日記で、テーマ決めにしくじったからである。

 

 

しっかりとテーマを考えてから日記を書こうとしていたところ、「下書き」というタブの横に「お題」というものがあることに気づいた。

よくよくみてみると、今週のテーマは「大発見」だそうだ。

おそらく先週も、何かしらのテーマが決められていたのだろう。

 

 

さてさて。

早速手詰まりである。

大発見というテーマは難しくないか?

そもそも大発見とは何なのか?

 

まず思うのは、「発見」と「発明」の違いである。

ざっと思いつくのは、

発見・・・すでにあるものに気づくこと(discovery)

発明・・・この世にないものを生み出すこと(invention)

であろう。

 

このブログの趣旨である「相対性理論を自力で思いつく」というのは「発見」にあたるのだろう。

ちなみに、進捗としては95%ほどである。

もう喉のところまで来ているが、あと一歩がなかなか出てこない状況である。

今日発見できていれば、間違いなく大発見として述べられていただろう。

 

一方で、「エジソンが電球を生み出した」ということは、発明であろう。

 

そう考えたときに、まず議論すべきは、物理学者は発見する人なのか?それとも発明する人なのか?ということである。

残念ながら、私は科学と研究に明るくないので、電球が欲しい。

しかし、パッと思いつくのであれば、基礎物理は発見する人であり、応用物理は発明する人なのだろう。

 

ちなみに、「水の融点と沸点が、0度と100度というのはキリが良すぎる」という笑い話がある。

しかし、私は素直に笑えない。

上記の発言と、私の考えの違いは、理系の方にしてみれば微々たるものなのかもしれない。

ちなみに、文系の私にとって、力学と電磁気学量子力学の違いは微々たるものである。

 

 

次に考えるべきは、哲学は発明なのか?発見なのか?ということである。

例えば、「無知の知」や「我思う、故に我あり」というのは、発見のように思う。

一方で「弁証法」や「演繹法」というのは、発明のように思う。

 

結局は、わからない。

わからないからこそ哲学なのだろう。

 

少し話は逸れるが、「考えても意味がないことを考える」ということに意味があるのか?という議論が、私の中にある。

「意味があるか」「価値はいくらか」「正しいとは何か」という議論は、どこに基準を置くかによって変わると思っている。

そのため、何をもって「考えても意味がないこと」とするのかも、何をもって「意味があるのか?」ということも定義できない。

ちなみに私の場合、「人生に意味はあるか」「人生の価値はいくらか」「人生における正しさとは何か」というところに帰結しがちである。

そしてそれは、世界の終わりといったところまで軽く飛躍してしまう。

例えば、私は今、お腹が空いている。

そんな私にとって、ご飯を食べに行くことに意味はあるのか?

空腹を満たせるという点では意味があるのだろう。

しかし、宇宙の最後の日に、私が2024年3月3日にご飯を食べに行ったということが、何かしらの影響を与えるか?というと、無いように思う。

私がマクドナルドでてりやきマックバーガーを食べたとしても、テキサスにトルネードを起こすことさえできないだろう。

この規模になると、全てのことが無意味になり、全てが虚しくなる。

 

 

話を戻そう。

発見と発明についての考察はこの辺にしておこう。

次に議論すべきは、「発見」と「大発見」の違いであろう。

 

AIに聞いたところ、大発見とは

「科学や技術、医学、文化などの分野で、その分野における大きな進歩をもたらすものです。一方、発見は大発見とは異なり、その影響がそれほど多いくないことがあります。」

とのことである。

 

そんなことを言われたら、大発見なんて経験したことがない人がほとんどであろう。

そんなに頻繁に大発見があれば、世界はいくつあっても足りないだろう。

 

そう考えると、「大発見」という考えも、前述したような問題に陥る。

宇宙規模で言うと、私が自力で相対性理論を思いついたとしても、大発見にはならないだろう。

ともすれば、アインシュタインが自力で相対性理論を思いついたことも大発見にはならないかもしれない。

そうなると虚しくなる。

 

そんなことを思わせたいわけではないだろう。

 

「大発見」というお題にそって、少し真面目に考えてみよう。

できるだけ、身近なもので考えたいと思う。

 

 

私は日常的な発見を、日記の一行目に書いている。

いつか、このコーナーをまとめた日記を作ろうと思っているが、それは置いておく。

基本的には「気づき」というニュアンスなのだが、その中でもっとも「発見」っぽく、かつ、自信があるものを挙げておく。

それは

 

〜新しいには2種類ある。初代のiPhoneと最新のiPhoneである〜(2024年1月15日)

 

である。

これを超えるような気づきは、2〜3ヶ月は生まれないような気がする。

 

 

では、今日の一番の発見は何であったか?

おそらく、「今週のお題」というものがあると気づいたことだろう。

 

 

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