文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

余韻について〜ミステリーに余韻は必要なのか?〜

〜正直であることに理由なんてない。あるのは嘘をつく理由と、嘘をつかない理由である〜

 

 

今日は朝の7時に起きて、少しダラダラした。

しかし、昨日のブログの通り、今日からしっかりとアクティブになると決意したため、8時過ぎに歩きにいった。

3キロほど歩いた後、走った。

600メートルほど走ったところで、気持ちが悪くなり、吐いた。

体力がなさすぎではないだろうか?

 

夕方5時前に、再度歩いた。

5キロほど歩いた後に、再度走った。

700メートル走れた。

小さな成長である。

 

明日は1キロほど走れるようになると嬉しい。

 

 

 

今日のテーマは「余韻」についてである。

 

 

このテーマにした理由は、朝のランニング後の嘔吐をしているときに、最近余韻に浸っていないと思ったからである。

 

 

学生時代は、アニメを見るたびに余韻に浸っていた。

以前記載したブログ「聖地巡礼について(2月15日)」の、聖地巡礼も余韻に浸るための行動だと思う。

 

では何が余韻を作るのか?

 

それは世界観であると考える。

昔、ある作家さんの記事で、もっとも良いのは「キャラクターが読者の中で勝手に動き出すこと」だと書いてあったような気がする。

確かに、人気のある作品であれば、どのキャラクターであればどういった判断をする等の考えが巡る。

キャラクターブックなどに、好きな食べ物が書いてあると、「意外だ」と思うことがあるが、これも私の中でキャラクターが勝手に動いているのだろう。

 

個人的に、もっとも余韻が大きいアニメ作品は「新世紀エヴァンゲリオン」ではないかと思う。

独特の世界観にモデルとなった実在する都市、張り巡らされた伏線に視聴者に委ねられた数多の解釈。

物語を見る時間よりも、見終わった後の考察の方が圧倒的に大きくなる人が多いのではないかと思う。

ちなみに余談であるが、私が「新世紀エヴァンゲリオン」の考察の末に至った結論は、あの物語は境界性パーソナリティ障害の物語ではないか?というものである。

詳しくは述べないが、本質的なところで考えると太宰治の「人間失格」やヘルマンヘッセの「車輪の下」に似ていると思う。

 

ちなみに、余韻が極めて少ないアニメ作品には「シン・エヴァンゲリオン」が上がる。

理由としては、ほとんどの伏線が回収され、解釈がそこまで視聴者に委ねられなかったと感じたことが挙げられる。

 

補足であるが、余韻とは

・音の鳴り終わったのちに、かすかに残る響き

・事が終わったあとも残る風情や味わい

・詩文などで言葉に表されていない趣

との事である。

 

おそらく私は二番目の意味の余韻のことを言っているのだと思う。

自信がないのは、風情や味わいというものがいまいちわからないからである。

私の中の「余韻」の定義が揺らぎ始めた。

私は、余韻の原因を「独特の世界観にモデルとなった実在する都市、張り巡らされた伏線に視聴者に委ねられた数多の解釈」と列挙した。

しかし、これらが風情なのかどうかはわからない。

そもそも、風情の原因は何か?と探ること自体が野暮なのかもしれない。

ただし、列挙した原因は、少なくとも味わいにはなるのではないかと思うが。

 

 

色々述べてきたが、最近余韻を味わえていないのはなぜなのか?

理由の一つに、最近はアニメやドラマ、スポーツといったコンテンツを見ていないからではないかと考える。

もっぱらミステリーや実用書を読んでいる(か、一日中寝ている)のだ。

 

ここで思うのは、ミステリーに余韻は必要なのかということである。

私はいらないように感じる。

あくまで私見であるが、ミステリーにおいて重要なのは、伏線が回収されることの爽快感である。

もちろん風情や味わい(何かはわからないが)を残す作品もいいと思う。

しかし、ミステリーにおいては、感情のピークが問題解決であってほしい。

もっとも記憶が残るのも、問題解決であってほしい。

余韻を残されると、まだ解決しなければいけない問題が残されたような気分になる。

 

 

しかし、ここでさらに生まれた疑問は、「問題解決の爽快感」や「どんでん返しを食らったあの感覚」は風情や味わいではないのか?余韻ではないのか?ということである。

 

 

もはやわからない。

完全に迷宮入りしている。

今日の記事では、余韻についての爽快感のある回答は出てこなかったというべきであろう。

その意味で、私は「余韻」に負けたのだ。

そしておそらくこのことは、今日のこの日記の「余韻」にはならないのだろう。

 

私には「なぜ、最近余韻を味わえていないのか?」という最大の疑問だけが残るのである。