文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

疲労について〜疲労と疲労感は別物〜

〜多くの議論の結論は、モラルによって捻じ曲げられる〜

 

 

今日は昼過ぎまで寝ていた。

最近休みの日の、特に午前中はダラダラと過ごしてしまっている。

起きて寝ての繰り返しである。

うーむ。

 

昼過ぎにジムにいって筋トレをしたのち、少しだけ歩いてきた。

 

 

 

今日のテーマは「疲労」についてである。

 

 

このテーマにした理由は、最近「疲労感」が強いからである。

 

 

正直なところ、最近色々な流れがよくない。

仕事がある日はなんとか仕事をこなすだけの日々である。

休みの日には、今日のように午前中をダラダラと過ごし、なんとかジムに行くだけである。

 

なんとかしなければならない。

 

以前のブログで、一念発起は続かないと記載した。

しかし、ここは一念発起にかけるしかないのかもしれない。

 

 

昔、武井壮さんが、一日の睡眠時間が極めて短いことを公表した。

理論としては、ハードなトレーニングをしているため、日常生活では疲れないというものだった。

もちろんエンタメよりな考えなのだろう。

しかし、このような生き方はバイタリティが強く、本当に憧れる。

睡眠こそ至高、最高の贅沢と考えている私には、たどり着けない境地である。

 

ちなみに私は、「疲労」と「疲労感」は別物だと考えいる。

前者は肉体に蓄積されている疲れのことである。

後者は疲れ(「疲労」)をどれだけ感じるかということである。

ざっというと、このような区分けである。

 

先ほどの武井さんの話では、「疲労感」は感じないが「疲労」は確実に蓄積されているのだろう。

急な病気などには気おつけて欲しいが、今は規則正しい生活を送っているのだろう。

 

問題は私である。

明らかに寝過ぎである。

そこそこの「疲労」はあると思うが、それを上回る「疲労感」がある。

 

ここで考えるべきは、「疲労感」を感じにくくすることはできるのかということである。

簡単にいうと、体力をつけられるのかということである。

どうすれば体力がつくのだろうか?

わかりやすく言えば、ランニングであろう。

これに関しては、早速実行するしかない。明日から実行しようと思う。

その中で私が危惧していることは、メンタル的な疲労感である。

ランニングをすれば、心肺機能は高まるように思う。

副次的な効果で、規則正しい生活と、本来あるべき肉体的な疲労が蓄積されるだろう。

だからと言って、メンタル的な疲労感を鈍感にできるのかはわからない。

 

そもそも精神力を鍛えるというのは、できるのだろうか?

とっつきやすく精神を鍛えることはできないと思う。

よって、前述した体力を鍛える方法しかないのだろう。

規則正しい生活、栄養価のあるご飯、二度寝の禁止、昼寝の禁止、と言った基本的なところに再度戻る必要があるのかもしれない。

 

この点、私は現代の科学よりも先人たちの知恵を重視する傾向にある。

さらばアインシュタイン

あれこれ考えるよりも、本能的に生きていた先人たちに倣った方が効果的だという仮説である。

 

そう考えてみると、人体というのはわからないことが多いように思う。

医学的なことはわからないため割愛するが、人体実験が行われていないことが要因の一つのように感じる。

決して人体実験に賛成というわけではないが、メリットとデメリットを考えてみるのは有効だと思う。

私の悪いところである拡大解釈であるが、これだけ情報量の多い時代を、人間は経験したことがないような気がする。

もっとも、過去の全ての人たちは、これまで経験したことがないことばかりだったのだろう。

餓えや理不尽な処分を言った不安に苦しんでいた可能性もある。

その意味で、生きている以上は全員が人体実験の被験者なのだろう。

 

とはいえ、色々考えたところで明日からランニングをしない理由は一つも見つからない。

天候も晴れである。

少し頑張ってみようと思う。