文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

今について〜結果論と分岐点

〜昔、科学は夢を見せてくれた。今、科学は現実を見せてくる〜

 

目次

 

今日は金曜日である。

仕事は少し先に、雲行きが怪しい予定が入ってしまった。

先のことを考えると嫌になる。

あまり先のことは考えないようにしようと思う。

 

 

 

今日のテーマは「今」についてである。

 

 

このテーマにした理由は、先のことを考えると辛くなると思ったからである。

 

 

今とは

「今とは?」

「今は2024年の3月22日です。」

「現在とは?」

「申し訳ありませんが、現在は2024年3月22日です。」

「『今』の概念を教えて」

「『今』は時間の概念であり、現在の瞬間や時点を指します。一般的には、過去と未来の間の瞬間を表します。人々は『今』を経験し、その瞬間に存在していることを意識します。時間の流れの中で、過去から未来へと進行していく中で、常に『今』は変化しています。」

 

「今」の意味を聞くことに、ここまで苦労するとは思わなかった。

 

一般的かどうかは分からないが、「過去と未来の瞬間を表します」というのは、大いに同感する。

 

「常に『今』は変化しています」に関しては、にわかには分からない。

 

 

「今」の特異性

「過去」と「未来」が存在するのか?については、置いておこう。

 

仮に存在するとして、「過去」と「未来」は随分と幅があるように思う。

 

しかし、「今」というのは、瞬間である。

 

「今」に幅がある。というのは想像しにくい。

 

以前軽く述べたが、高速で走っている新幹線に乗っている時に、前の席に座っている人とはぶつからない。

 

これは、前の席の人と自分に数十センチの幅があるからである。

 

しかし、その場面を新幹線の外から見てみる。

 

すると、前の席の人と自分がぶつからないのは、前の人が通り過ぎるのと自分がその場所を通るのに、わずかな時間の差があるからである。

 

そう考えると、「今」というのに幅があると、このようなよくあるシチュエーションで、しょっちゅう接触事故が起こるのではないだろうか?

 

(*どうでもいいが、「シチュエーションでしょっちゅう接触と10回噛まずに行ってもらいたい)

 

 

なぜ、「過去」と「未来」のことばかり考えてしまうのか?

言い換えれば、なぜ「今」のことを考えられないのだろう。

 

あくまで私見であるが、「今」の判断を、「過去」の材料から作るためであろう。

 

では、なぜ「未来」を考えるのか?

 

これは、「過去」に材料がないときなどに、「未来」から材料をもらうためであろう。

 

例えば投資の例である。

 

目の前の株価が3,000円だとする。

 

これだけでは、何の情報もない。

 

ここで、過去の株価の推移を見る。

 

2,500円から上がったのか、3,500円から下がったのかを確認する。

 

その上で、未来の株価を予想する。

 

今後2,500まで下がるのか、それとも3,500円まで上がるのか、と言ったところである。

 

 

なぜ、「今」はこんなに辛いのか?

あくまで私見であるが、「今」というのは、選択の連続だからであろう。

 

選択というのは、「答えが示されていない状況で、回答を迫られる状態」である。

 

前述の例で言うと、株を買うか買わないのか?という選択である。

 

選択というのは、何かを選ぶことであるが、同時に、何かを捨てることでもある。

 

その中で避けられないのが、リスクである。

 

選択を先延ばしにするというのも、一つの選択であり、リスクを伴うのである。

 

リスクとは、「損失」のことであるが、「後悔」と捉えてもいいかもしれない。

 

なぜあの時、あんなことをしてしまったのか?

 

 

なぜ、「過去」と「未来」のことばかり考えてしまうのか?

わたしの信念の一つに「いつの時代の人も、時間の矢面に立たされている」というものがある。(最近毎日出てくる)

 

「過去」のことを考えると、結果がわかるので、「立ち回り方」がわかるのが大きいのではないかと思う。

 

株で言うと、もっとも安いところはどこで、もっとも高いところはどこか?と言うことがわかる。

 

そのため、どこで買うかもわかるし、どこで売るかもわかる。

 

そのときに、いくら儲かるかもわかる。

 

「過去の中」では、自分が最適の選択をすることができる。

 

「過去」に自分のとった行動と対比して、歓喜するのか、後悔するのかは分からない。

 

しかし、ここで重要なのは、「過去の自分の行動」のレビューは参考にはなるが、再現性はほとんどないということであろう。

 

「今」にこの考えやメンタルを応用するのは難しいのだ。

 

 

なぜ、「今」はこんなに辛いのか?

「過去」のことを考えるのも、「未来」のことを考えるのも、「今」の自分である。

 

後悔をするのも、不安を感じるのも、「今」の自分である。

 

どうして全てのことが、「今」の自分に降りかかってくるのだろうか?

 

そう考えると、「今」と「それ以外」を分ける意味があるかも分からない。

 

そもそも、「過去」と「未来」があるのかどうかも怪しい。

 

何も考えずに生きられたら、さぞかし楽だろう。

 

「過去」も「未来」もなければ、「今」に降りかかるものも少ないだろう。

 

しかし、我々は考えることを選んだ。

 

それは、我々が「現在」という「原罪」を背負うことを意味している。

 

・・・。

 

 

「今を生きる」ためには?

言い換えれば、「過去」や「未来」に縛られない方法は?ということになる。

 

簡単である。

 

「今」を一所懸命に生きればいいのである。

 

と言われても、再現性がないだろう。

 

再現性がある風にいうと、

 

『その時の判断が、その時の情報、状況、感情に鑑みて、妥当であるかで考えることである(プロセス論と命名する)。』

 

わかりやすく、反対語をあげるとすれなば、「結果論」である。

 

「結果論」の先にあるのは、後悔だけである。

 

「プロセス論」の先にあるのは、反省である。

 

「後悔」と「反省」の違いは、明らかであるか、明らかでないかのどちらかである。

 

 

プロセス論について

日常生活でプロセス論を使ってみる。

 

「なぜあんなことをしたんだろう?」と考える人は多い。

 

この時、「もしあんなことをしなければ、こうなっていた、あれも防げた」というのは、「結果論」であり、意識が、「過去」と「未来」に逸れてしまっている。

 

大事なのは、「あんなことをしたプロセス」、つまり、「あんなこと」をする判断に至った経緯や根拠である。

 

これを列挙する人は少ないと思う。

 

列挙してみると、意外と回避できない「運命」だった。と受け入れられることもある。

 

さらに、反対意見(あんなことを防げた情報や思考法など)があれば、それが盲点であり、自分が軽視していたポイントである。

 

しっかり反省して、反対意見を自分の中に取り入れていけばいい。

 

色々思うこともあるだろうし、「後悔」が避けられないこともあるだろう。

 

しかし、「反省」という、いいお土産を貰った、と強引に割り切りやすくはなると思う。

 

 

最後に

過去に「分岐点」は存在している。

 

しかし、選択しなかったということは、その他の枝を切り落としたということである。

 

今更、切り落とした枝のことを考えてもキリがないだろう。

 

未来に「分岐点」は存在している。

 

しかし、その分岐点まで無事に辿り着けるかは分からない。

 

現時点で、そんな不確定なことを考えてもキリがないだろう。

 

真の「分岐点」は現在にしか存在しないのかもしれない。

 

 

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