文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

時間について〜時間は存在するのか〜

〜水が流れるのは、流れる水を見ているからだ。大半の水は流れていない〜

 

今日は、朝から雪をよかした。

おかげで今、ものすごく腰が痛い。

老いを感じる。

ただ、昨日思っていたほど、雪は積もらなかった。

当然ジムには行かなかった。

 

 

今日のテーマは「時間」である。

 

このテーマにした理由は、日頃から「時間」とはなにかについて考えており、ここらへんで一旦まとめておこうと思ったからである。

 

明暗は眼で、音と平衡感覚は耳で、匂いは鼻で、味は舌で感じ、触覚は皮膚で感じる。

では、時間はどこで感じるのか?

短期的な時間であれば太陽の傾きで感じられるだろう。

では、中長期的な時間はどこで感じるのか?

一番わかりやすいのは、老いであろう。

しかし、これらはいずれも状況から総合的に判断されるものであって、時間を感じ取る器官はない。

 

ここで思うのは、時間というものは本当に存在するのか?ということである。

 

以前少し触れたが、私は過去も未来も存在せず、現在しか存在しないという考えを少し持っている。

少しというのが重要である。

これが、少しではなく、確信を持つようになると危ないだろう。

この前提に立てば、時間というものが存在するためには、記憶が必要であるように思う。

 

昔、「博士の愛した数式」という映画をみた。

ざっくり言えば、博士の記憶が80分しか持続しないというものである。

ここで仮に、1秒も記憶が持続しないとすれば、時間という概念は存在するのだろうか?

 

ここで重要なのが、ビデオや日記などでは、時間を行き来することができるということである。

このことは、時間というものが、連続したものであるということの強い根拠になると考える。

しかし、現在の軸を過去や未来に動かすことはできない。

この違いが、何故生じるものなのかについては、常日頃から考えているのだが、今現在答えは出ていない。

もっとも、この答えが出たときには、ノーベル賞では収まらないほどの大発見になるだろう。

 

ここから少し変な話をする。

私はいたって真剣に話すのだが、全く受け入れられない話である。

それは、私が目覚めたその日は、ランダムになっているのではないかというものである。

いい具体例が思い浮かばないが、我々はわからないことを都合のいいように補足しながら世界を見ていると思う。

そう考えると、1月22日がきて、1月23日がきて、1月24日がくるという流れに合わせて理解するのがわかりやすいのだろう。

特に記憶の蓄積があるから、順番に流れていると思い込んでしまうが、注意してほしいのはここでも時間の流れの根拠は記憶だけなのである。

仕事も人間関係も全て記憶ベースであり、お互に同じ認識を持っているのは、たまたまかそのように調節されただけかも知れない。

物的証拠も名前も全て記憶ベースであり、この日記も昨日まで私が書いていたということを証明することはできない。

また、そもそもこの日記が連続されているものか、それとも私がそのように思っているから「これまでの日記」というものが急に出来上がったのかを証明することもできない。

時間の連続性というのはそれくらいあやふやなものだと思う。

まとめると、1月24日がきて、1月22日がきて、1月23日がくるという順番になっていてもおかしくはない。

あるいは、もっと年単位でバラバラになっているのかも知れない。

もしかしたら、我々は全ての工程を無事終えて、シャッフルされた記憶を時系列順に並べた上で、いろいろな解釈を付している途中なのかも知れない。

さらにはいえば、眠って起きたときには別の人になっているかも知れない。

 

そもそも、人間は睡眠という意識をなくす時間が必要であることに疑問を持っていた。

次に目覚めた時をシャッフルするためと考えれば、意識を飛ばすために睡眠が必要であるということ納得できる。

 

では、なぜ目を覚ますたびにランダムにする必要があるのか?

また、なぜバラバラな日々の工程を無事終えたのに、再度時系列順に並べていろいろな解釈を付しているのか?

そんな細かいことはわからない。

私はもっと大きな話をしているのである(ドヤ顔)

 

時間について、今考えていることはこれぐらいであろう。

明日は少し早い時間に出社する必要があるため、早めに寝る。

もっとも、起きたときに2024年1月24日かどうかはわからないが。