〜時間をかけるのではない、時間を賭けるのである〜
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随分と久しぶりの日記になってしまった。
このところ、忙しない毎日に追われている。
と、軽く言い訳してみる。
正直なことを言うと、勉強を始めたため、なかなか時間が取れない。
しかし、ここまで日記を書かなくなるとは思わなかった。
今日のテーマは「勉強」である。
このテーマにした理由は、勉強とは何かを考えようと思ったからである。
「勉強」とは
「勉強とは?」
「勉強とは、新しい知識やスキルを獲得し、理解を深めるために行う活動です。それは、本を読んだり、調査したり、問題を解いたりすることによって行われます。勉強は人々が成長し、自己を向上させるための重要な方法の一つです。」
とのことである。
「成長とは?」
「成長は、時間の経過と共に体験や学びを通じて、知識、技能、または精神的な成熟を達成するプロセスです。それは個人や組織が進歩し、変化し、向上することを意味します。」
とのことである。
個人的に引っかかるのは、「時間の経過と共に」と言うフレーズである。
「読書」は「勉強」なのか
私はこの4月、本を一冊も読まなかった。
理由は前述の通り、勉強の開始による時間の喪失である。
では、「読書」は勉強なのか?
これは人によるのではないかと思う。
特に、本を読む人は少なくとも「読書」の一部を「勉強」と捉えているのではないかと思っている。
つまり、「本を読む人にとって、読書は勉強である」となり、「本を読まない人にとって、読書は勉強ではない」と言う仮説になる。
ここで、「本を読まない人にとっての読書」は、いわゆる『存在しないもの』となるため、重要ではないだろう。
そうなると、「読書は勉強である」となろう。
「ギャンブル」の正体
では、「ギャンブル」はなんなのか?
この質問は、とても難しいと思う。
「ギャンブルとは?」
「ギャンブルは、金銭や財産を賭けて未知の結果に対するリスクを取る活動のことです。これは、カジノでのカードゲームやスロットマシン、スポーツ賭博、馬券、ロト、または他の賭け事を含むさまざまな形態で行われます。」
とのことである。
色々言いたいことはあるが、最も言いたいのは、ギャンブルの定義そのものよりも、「その概念」が「ギャンブル」に当たるかどうかである。
「勉強」は「ギャンブル」か
あくまで私見であるが、「勉強」はゴリゴリの「ギャンブル」である。
先ほどAIに教わった定義によると、「未知の結果に対するリスクを取る活動のことです。」とのことである。
もちろん、勉強をしても、それを取得(理解及び再現)できるかはわからないし、そもそも使えるものであるかどうかもわからない。
よって、定義に合致するだろう。
ただ、かけるものが「金銭や財産」ではなく、「時間」という違いがあるだけである。
「時間」を『賭ける』のである。
では、なぜ「勉強」に「ギャンブル」的な要素を感じないのか?
これは、目下の謎である。
あくまで仮説であるが、何をしても時間は強制的に進むからではないかと考える。
お金であれば、好きな時に好きなだけ賭けることができる。
しかし、時間は、自分の意思とは関係なく、常に一定の割合で『賭けさせられる』ことになる。
24時間、365日、我々は『賭け』続けているのである。
24時間、365日、常に『賭けている』と意識して過ごす人は少ないだろう。
そうなると、どうせ時間を強制的に賭けさせられるならば、「勉強」に賭けておけば「比較的安全」だろう、となるのではなかろうか?
拡大させると、「勉強」している時だけが「リスク」から解放されるとも言えるかもしれない。
ただし、そうなっても、リターンが確保されているわけではないことに注意しなければならないだろう。
ちなみに、「勉強」が「ギャンブル」であれば、読書も「ギャンブル」ということになろう。
「読書」をする理由に「休日を有意義なものにしたい」というものがあると思う。
これも、「時間」を「安全なものに賭ける」との意識が働いているのかもしれない。
「時間」という「通貨」について
「通貨とは?」
「通貨は、一般的には特定の国や地域で法的に認められ、商品やサービスの取引に使用される、交換手段としての貨幣のことです。通貨は、紙幣、硬貨、または電子的な形態で存在する場合もあります。」
とのことである。
なぜこんな話になったのか?
パッと頭に思い浮かんだからである。
世の中には『時給』という考え方がある。
しかし、『1,000円を稼ぐのに何分かかるか?』という概念はほとんどない。
我々の寿命は、『年齢』で推しはかるのが一般的であろう。
社会主義的資本主義
例えば、『2億円を使ったら命が終了する』という世界を思いついたとする。
今後、医学の発展により、人間が寿命を超越すると、この社会主義的資本主義とも呼ぶべき世界になるのかもしれない。
この世界では、「お金」こそが「寿命」となろう。
そして、人は「お金」の前で「平等」とも言えるかもしれない。
最もこのような世界になるのは、まだまだ先の話であろう。
そう考えると、現時点で我々は、『時間』の前でこそ『平等』と言えるのはなかろうか?
変な話、「お金に対する価値観」は人によって異なるのだから。
あなたにとっての100円は、私にとっての100円ではない。
あなたにとっての1,000円は、私にとっての1,000円ではない。
ただし、あなたにとっての100兆円は、私にとっての100兆円と大差がないだろう。
最後に
久しぶりの日記だけあって、内容的にも論理的にもとっ散らかっている。
日記のブランクがそうさせているのかもしれないし、言いたいことが多すぎてまとめられていないのかもしれない。
しかし、あまりに酷いので、あとで読み返して適宜修正しようと思う。
やはり日記を書くのは楽しい。
個人的には、もう少し砕けた感じで、軽いノリの日記を書きたい。
1ヶ月前くらいはそんな日記が賭けていたように思う。
最近は、真面目すぎる。のか?
まぁ、今後もぼちぼち書いていこうと思います。