文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

今について〜結果論と分岐点

〜昔、科学は夢を見せてくれた。今、科学は現実を見せてくる〜

 

目次

 

今日は金曜日である。

仕事は少し先に、雲行きが怪しい予定が入ってしまった。

先のことを考えると嫌になる。

あまり先のことは考えないようにしようと思う。

 

 

 

今日のテーマは「今」についてである。

 

 

このテーマにした理由は、先のことを考えると辛くなると思ったからである。

 

 

今とは

「今とは?」

「今は2024年の3月22日です。」

「現在とは?」

「申し訳ありませんが、現在は2024年3月22日です。」

「『今』の概念を教えて」

「『今』は時間の概念であり、現在の瞬間や時点を指します。一般的には、過去と未来の間の瞬間を表します。人々は『今』を経験し、その瞬間に存在していることを意識します。時間の流れの中で、過去から未来へと進行していく中で、常に『今』は変化しています。」

 

「今」の意味を聞くことに、ここまで苦労するとは思わなかった。

 

一般的かどうかは分からないが、「過去と未来の瞬間を表します」というのは、大いに同感する。

 

「常に『今』は変化しています」に関しては、にわかには分からない。

 

 

「今」の特異性

「過去」と「未来」が存在するのか?については、置いておこう。

 

仮に存在するとして、「過去」と「未来」は随分と幅があるように思う。

 

しかし、「今」というのは、瞬間である。

 

「今」に幅がある。というのは想像しにくい。

 

以前軽く述べたが、高速で走っている新幹線に乗っている時に、前の席に座っている人とはぶつからない。

 

これは、前の席の人と自分に数十センチの幅があるからである。

 

しかし、その場面を新幹線の外から見てみる。

 

すると、前の席の人と自分がぶつからないのは、前の人が通り過ぎるのと自分がその場所を通るのに、わずかな時間の差があるからである。

 

そう考えると、「今」というのに幅があると、このようなよくあるシチュエーションで、しょっちゅう接触事故が起こるのではないだろうか?

 

(*どうでもいいが、「シチュエーションでしょっちゅう接触と10回噛まずに行ってもらいたい)

 

 

なぜ、「過去」と「未来」のことばかり考えてしまうのか?

言い換えれば、なぜ「今」のことを考えられないのだろう。

 

あくまで私見であるが、「今」の判断を、「過去」の材料から作るためであろう。

 

では、なぜ「未来」を考えるのか?

 

これは、「過去」に材料がないときなどに、「未来」から材料をもらうためであろう。

 

例えば投資の例である。

 

目の前の株価が3,000円だとする。

 

これだけでは、何の情報もない。

 

ここで、過去の株価の推移を見る。

 

2,500円から上がったのか、3,500円から下がったのかを確認する。

 

その上で、未来の株価を予想する。

 

今後2,500まで下がるのか、それとも3,500円まで上がるのか、と言ったところである。

 

 

なぜ、「今」はこんなに辛いのか?

あくまで私見であるが、「今」というのは、選択の連続だからであろう。

 

選択というのは、「答えが示されていない状況で、回答を迫られる状態」である。

 

前述の例で言うと、株を買うか買わないのか?という選択である。

 

選択というのは、何かを選ぶことであるが、同時に、何かを捨てることでもある。

 

その中で避けられないのが、リスクである。

 

選択を先延ばしにするというのも、一つの選択であり、リスクを伴うのである。

 

リスクとは、「損失」のことであるが、「後悔」と捉えてもいいかもしれない。

 

なぜあの時、あんなことをしてしまったのか?

 

 

なぜ、「過去」と「未来」のことばかり考えてしまうのか?

わたしの信念の一つに「いつの時代の人も、時間の矢面に立たされている」というものがある。(最近毎日出てくる)

 

「過去」のことを考えると、結果がわかるので、「立ち回り方」がわかるのが大きいのではないかと思う。

 

株で言うと、もっとも安いところはどこで、もっとも高いところはどこか?と言うことがわかる。

 

そのため、どこで買うかもわかるし、どこで売るかもわかる。

 

そのときに、いくら儲かるかもわかる。

 

「過去の中」では、自分が最適の選択をすることができる。

 

「過去」に自分のとった行動と対比して、歓喜するのか、後悔するのかは分からない。

 

しかし、ここで重要なのは、「過去の自分の行動」のレビューは参考にはなるが、再現性はほとんどないということであろう。

 

「今」にこの考えやメンタルを応用するのは難しいのだ。

 

 

なぜ、「今」はこんなに辛いのか?

「過去」のことを考えるのも、「未来」のことを考えるのも、「今」の自分である。

 

後悔をするのも、不安を感じるのも、「今」の自分である。

 

どうして全てのことが、「今」の自分に降りかかってくるのだろうか?

 

そう考えると、「今」と「それ以外」を分ける意味があるかも分からない。

 

そもそも、「過去」と「未来」があるのかどうかも怪しい。

 

何も考えずに生きられたら、さぞかし楽だろう。

 

「過去」も「未来」もなければ、「今」に降りかかるものも少ないだろう。

 

しかし、我々は考えることを選んだ。

 

それは、我々が「現在」という「原罪」を背負うことを意味している。

 

・・・。

 

 

「今を生きる」ためには?

言い換えれば、「過去」や「未来」に縛られない方法は?ということになる。

 

簡単である。

 

「今」を一所懸命に生きればいいのである。

 

と言われても、再現性がないだろう。

 

再現性がある風にいうと、

 

『その時の判断が、その時の情報、状況、感情に鑑みて、妥当であるかで考えることである(プロセス論と命名する)。』

 

わかりやすく、反対語をあげるとすれなば、「結果論」である。

 

「結果論」の先にあるのは、後悔だけである。

 

「プロセス論」の先にあるのは、反省である。

 

「後悔」と「反省」の違いは、明らかであるか、明らかでないかのどちらかである。

 

 

プロセス論について

日常生活でプロセス論を使ってみる。

 

「なぜあんなことをしたんだろう?」と考える人は多い。

 

この時、「もしあんなことをしなければ、こうなっていた、あれも防げた」というのは、「結果論」であり、意識が、「過去」と「未来」に逸れてしまっている。

 

大事なのは、「あんなことをしたプロセス」、つまり、「あんなこと」をする判断に至った経緯や根拠である。

 

これを列挙する人は少ないと思う。

 

列挙してみると、意外と回避できない「運命」だった。と受け入れられることもある。

 

さらに、反対意見(あんなことを防げた情報や思考法など)があれば、それが盲点であり、自分が軽視していたポイントである。

 

しっかり反省して、反対意見を自分の中に取り入れていけばいい。

 

色々思うこともあるだろうし、「後悔」が避けられないこともあるだろう。

 

しかし、「反省」という、いいお土産を貰った、と強引に割り切りやすくはなると思う。

 

 

最後に

過去に「分岐点」は存在している。

 

しかし、選択しなかったということは、その他の枝を切り落としたということである。

 

今更、切り落とした枝のことを考えてもキリがないだろう。

 

未来に「分岐点」は存在している。

 

しかし、その分岐点まで無事に辿り着けるかは分からない。

 

現時点で、そんな不確定なことを考えてもキリがないだろう。

 

真の「分岐点」は現在にしか存在しないのかもしれない。

 

 

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方法論について〜数字に騙されない方法〜

〜申開きができるのであれば、過程と結果は同等である〜

 

目次

 

今日は全身筋肉痛の中、仕事に行ってきた。

首から下の全てが筋肉痛である。

歩くこともままならない。

電車の中でどうしても座らないとまずい!と思ったので、女子高生3人が座っているボックス席に座った。

いつの日か、この判断もコンプラ違反になるのだろうか?

 

 

 

今日のテーマは「方法論」である。

 

 

このテーマにした理由は、一度「方法」と「方法論」の関係を考えてみたいと思ったからである。

 

 

 

方法論とは

わたしは、方法論という言葉を聞いたことこそあるが、厳格な意味を知らない。

 

「方法論とは?」

「方法論は、特定の目標を達成するための方法や手法に関する体系的なアプローチや原則のことです。研究や問題解決の際に使用される方法論は、その目的や対象に応じて異なります。例えば、科学的な研究では仮説検証や実験設計が含まれる方法論が使われます。」

 

「方法と方法論の違いは?」

「方法は、具体的な手法やアプローチを指します。特定の目的や課題に対処するための手段や手順のことです。例えば、実験方法、調査方法、分析方法などが挙げられます。

方法論は、方法を選択し適用するための体系的なアプローチや原則の体系全体を指します。研究やプロジェクト全体の設計や計画を構築するための方法論があります。方法論は、目標や問題の性質、および利用可能なリソースに基づいて、適切な方法を選択するための枠組みを提供します。」

 

「方法論と判断の違いは?」

「方法論は問題解決や研究の手順やアプローチに関する枠組みであり、判断は特定の選択肢を評価し、最良の行動を選択するプロセスです。」

 

「方法論と選択の関係は?」

「حتى لو شرحت لك ذلك، فلن تفهم.」

 

よく分からないことが書かれていた。

多分、方法論には距離感があり、その一部に、選択のために使われることもあるということなのかもしれない。

 

 

ものすごく主観的な話をすると、『文系は迂闊に「方法論」という言葉を使うな!』と言われている気がした。

 

 

・・・わかりました。

 

 

方法の分解

方法論についての考察は諦める。

 

世の中にはいろんな方法がある。

 

例えば、昨日、ゴルフの日記を書いたが、ゴルフにもたくさんの方法がある。

 

ポピュラーなものだと、

「スライスを無くしたいのであれば、身体を開かないようにする」

というものがある。

 

ゴルフをまったく知らない人は、なるほど!と思うかもしれない。

 

しかし、ゴルフをする人であれば、

「どうすれば身体が開かないようになるか、分からない」

と思うはずである。

 

方法を実現するための方法が必要である。

 

方法を分解する必要が出てくる。

 

どこまで分解するべきか?

 

それは、再現性(自分で同じことができる)が確保されるまでであろう。

 

 

数字に騙されるな!

「数字に騙されるな!」ということをよくいう。

 

確かに正確な判断をするためには、有用な情報を使わなければならない。

 

これは、他人に用意された情報が、自分の判断に有用な情報か?ということを、意識しろということかもしれない。

 

「数字に騙されないようにしよう」

 

と、たいていの人はこのように心に刻んでんで、生活するだろう。

 

それでいいように思う。

 

しかし、わたしは

「数字に騙されないようにするにはどうすればいいの?」

と思う。

 

「数字に騙されるな!」には、方法が示されていない。

 

要は、再現性がない。

 

 

卵が先か鶏が先か

数字に騙されないようにするには、統計学をはじめとしたデータの扱い方の知識が必要だろう。

 

統計の知識があれば、数字に騙されないようになるかもしれない。

 

仮に、数字に騙されない人を

「数字に強い人」

と定義する。

 

この時重要なのは、統計学などの数字を扱う勉強をしたから数字に強くなったのか、数字に強かったから統計学などの勉強ができたのか?という話である。

 

数字に強いというものが、先天的なものなのか後天的なものなのか、とも言える。

 

数字に強くなることに、再現性はあるのか?ということである。

 

 

筋トレとメンタル

少し話は逸れるが、筋トレをするとメンタルにいいという話を聞く。

 

ソースは不明であるが、多分何かしらの科学的な研究がなされているのだろう。

 

たいていの人は

「筋トレがメンタルにいいのはわかっているけど、なかなか行けない、続かない」

と思うのではなかろうか?

 

ここで注目したいのは、そもそも筋トレが続く人は、筋トレに向いているのではないか?ということである。

 

つまり、筋トレに向いている人が、その筋トレで成果を発揮する。

よってメンタルが良くなる。

とは、考えられれないか?ということである。

 

この仮説が正しければ、

「筋トレがメンタルにいい」

ではなく、

「自分に向いていることをすると、メンタルにいい」

ということになる。

 

「自分に向いていること」は筋トレである必要はなくなる。

 

恐ろしいことは、「筋トレに向いていない人」にとって、「筋トレ」は「メンタルに影響を及ぼさない」となることであろう。

 

 

数字に騙されない方法

筋トレの例に「数字」は出てきていないが、本質は同じように思う。

 

多分、因果関係や相関関係というものが影響しているのだろう。

 

わたしは特に因果関係や相関関係を理解していない。

 

ただし、筋トレの例で言うと、

「筋トレとメンタル」に相関があるのか、「自分に向いていることをすることとメンタル」に相関があるのかを考えてみよう!と言うことである。

 

では、どうすれば数字に騙されないのか?

 

統計学や数学を勉強すると言うのは一理あると思う。

 

しかし、個人的にそれよりも大事なのは、経験であると思う。

 

わたしは、この判断に資する経験のことを、「相場」と言っている。(個人的に)

 

大体の男性にとって、

「女性の化粧ポーチには10万円分のものが入っている」

と言われても、今一つピンと来ないだろう。

 

ここで大事なのは、10万円のデータをどのように吸い出したか?

ではなく、「*普通の人」はいくら位のものが入っているか?

と言うことであろう。

 

もっとも、この「普通の人」を定義するには、平均値を取るのか?中央値を取るのか?などといった、知識が必要となるだろう。

 

その上で、何がそんなに高いのか?その人はなぜそこにお金をかけているのか?等が問題になってくる。

 

ここまでが「経験」であり、「相場」であろう。

 

どのような営業をすれば、その人にものを買ってもらえるのか?という、ビジネスにつながる。

 

 

相関関係に縛られるな!

わたしは、日記を書く時に、最低限のコンプラは守るが、できるだけ「思いついたこと」を書くようにしている。

 

特に正しいかどうかは、考えない。

 

換言すれば、そこに相関関係があるかどうかは、重視しない。

 

これはわたしの信念の一つに

「いつの時代をの人も、時間の矢面に立たされている」

というものがある。

 

今、正しいかどうかを考えるのはある程度大事である。

 

しかし、正しかったかどうか?という判断には「時間」が必要である。

 

今、正しかったかどうかは、どれだけ考えても分からない。

 

正しくなかったのであれば、訂正すればいい。の精神も必要である。

 

わたしがどう間違えたかもわかるし、なぜ間違えたか(どの情報がなかったか?見落としたか?)?がわかるのも、有用な情報である。

 

相関関係を何よりも大事にする人がいるかもしれない。

 

「数字に騙されないようにしよう」と、最近、思い立った人には多いのかもしれない。

 

しかし、もっとも大切なものは「思いつき」ではないかとわたしは思う。

 

相関関係は、「思いついたもの」を調べるのには有効であるが、「思いつく」ための「方法」はなかなか提供してくれないのではなかろうか?

 

そもそも、相関関係の証明は難しく、しかも、たいていの場合、「データ」を使うだろう。

 

詳しくは分からないが、サンプルサイズが大きくなれば、相当信憑性のあるデータということになるのではないか?

 

そうなると、相関関係を使うことと、「多数決」や「経験則」とでは、何が違ってくるのか、わたしには分からない。

 

ただし、注意点としては、「思いつき」を定義していない。

 

わたしの思う「思いつき」の定義は、『この世でもっとも再現性のないもの』である。

 

よって、「思いつく」ための方法は、ない。というのが私見である。

 

再現性のない「思いつき」こそが、個性であると。

 

 

最後に

「数字に騙されるな!」という言葉が、なぜ成立するのか?

 

これは、わたしも含め、数字で騙す人がたくさんいるからだろう。

 

個人的には、「数字で騙すな!」と言える社会であってほしい。

 

 

本日も読んでいただきありがとうございます。

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ゴルフについて〜ゴルフのいったい何が楽しいのか?〜

〜近道が最適であれば、それは王道になり、近道ではなくなる〜

 

目次

 

今日はゴルフに行ってきた。

ラウンド初めである。

12時スタートであった。

予報は雨ときどき雪ときどき雷、気温は4°であった。

流石に中止になるかとも思ったが、ゴーになった。

なんとか18ホール周り、日記を書いている今、へとへとである。

 

 

 

というわけで、今日のテーマは「ゴルフ」である。

 

 

このテーマにした理由は、今日ゴルフに行ってきたからである。

ラウンド初めである。

12時スタートであった。

予報は雨ときどき雪ときど・・・という流れを18回するのがゴルフである。

 

 

ゴルフとは

ゴルフって何?って聞く前に、AIがなんと答えるか予想してみよう。

 

AIはそこまで起源に触れることはないと思う。

そのため、どこどこで生まれたという記載はないと思う。

 

クラブを使ってボールを飛ばし、ボールをカップに入れるまでの打数を競う球技である。

といったところであろうか?

 

AIは実用性については触れることがある。

そのため、競技としての性質はもちろん、ビジネスの関係構築目的でもゴルフが行われれうことがある。

という視点も入れてくると思う。

 

「ゴルフって何?」

「ゴルフは、クラブとボールを使ってプレイするスポーツです。通常、広大なコースで行われ、目的はボールを少ない打数でカップに入れることです。ゴルフでは、長い距離を打つ『ドライバー』から、短い距離を打つ『パター』まで、さまざまなクラブを使用します。また、障害物や地形の特性に対処しながらプレイします。ゴルフは、フィジカルな技術と戦略的な判断が求められるスポーツであり、個人やチームで楽しむことができます。」

とのことである。

 

確かに、道具が多いこと、フィールドが一定ではないことは重要な視点であったように思う。

AIには勝てない。

 

 

ゴルフという競技

その前に、今日のスコアは120くらいであった。

劣悪な天候とブランク(開幕戦であること)、さらにこの冬にスイング改造をしていたところを加味すると、仕方がない。

いつもは大体100くらいでまわる。

これは、ゴルフをする人の中ではそんなに上手くないといったところであろう。

ゴルフ暦は2年程度である。

そんなわたしが展開するゴルフ理論である。

 

ゴルフの試合を見たことがある人は少ないと思う。

わたしもほとんど見ない。

あまり面白いと思えないからだ。

しかし、プレーするのはとても楽しい。

 

ゴルフは「ミス」の連続である。

わたしもナイスショットは何回かでるが、プロのナイスショットとは雲泥の差がある。

 

プロはほとんどがナイスショットである。

中でも、ボールの落とし所が良ければナイスショットとなる。

 

素人は前にまっすぐ飛べば、全てナイスショットである。

 

 

スイングについて

ゴルフのスイングは、ものすごく難しい。

よく、野球のピッチャーに例えられる。

確かにピッチャーは、幾つもの変化球を投げなければならない。

 

ゴルフでも、AIが言っていた「ドライバー」と「パター」では全くスイングが違う。

 

(*ここから先は、ゴルフのスイングについてなので、興味がない方は少しお飛ばしください。)

 

例えば、わたしのクラブセッティングは、「ドライバー」「5番ウッド」「5番ユーティティ」「5〜9番アイアン」「ピッチングウェッジ」「アプローチングウェッジ」「サンドウェッジ」「パター」となる。

使うのは「ドライバー」「5番ウッド」「5番ユーティリティ」「7〜9番アイアン」「ウェッジ系」「パター」である。

6番以上のアイアンをロングアイアンというが、これが1番難しいというのが、多数説である。

わたしは打てない。

 

わたしは「ドライバーのスイング」「5番ウッドのスイング」「5番ユーティリティのスイング」「7〜9番アイアンのスイング」「ウェッジのスイング」「パターのスイング」の6種類のスイングを使う。

 

これは本当に人によるのだが、わたしはフック(左に曲がること)が多い。

 

 

クラブの特徴

(*この見出しも興味がない方はお飛ばしください)

・ドライバー

ドライバーは1番ウッドとも呼ばれる。

ドライバーはまっすぐ飛べばいい。

まっすぐ飛ばすには、左に曲げるスイングを意識し、右に曲げるスイングを意識し、その真ん中のスイングをする。

これだけなのだが、まったくまっすぐ行かない。

打率は6割といったところか。

 

・5番ウッド

フェアウェイウッドともいう。

わたしはこれが1番使いやすい。

基本的にまっすぐ飛ぶ。

たまに、10メートルほどしか飛ばないというミスをしてしまう。

打率は9割程度である。

 

・5番ユーティリティ

ハイブリットともいう。

これは、左に曲がりやすい。

そのため、全力で右に曲がるようなスイングをする。

どれだけ右に曲げるスイングをしても右に曲がることはない。

打率は8割程度である。

 

・7〜9番アイアン

アイアンが1番難しい。

アイアンのフックは致命傷である。

かと言って、ユーティリティのように左に曲がるような打ち方をすると、思いっきり左に行ってしまう。

よって、バランスのいいスイングを心がけている。

打率は7割程度である。

 

・ウェッジ系

これは5番ウッドの次に簡単である。

基本的にまっすぐしか飛ばない。

ただウェッジ系は距離の調整が1番大切である。

100ヤードと50ヤードは極める必要がある。

わたしはフェースを開いて閉じることを意識し、高い球が出るように意識している。

打率は9割程度である。

 

 

・パター

ゴルフの半分はパターである。

パターは調子がいい時はいいが悪い時はひどい。

今日は酷かった。

朝の練習で、5歩分の距離と10歩分の距離のスイングを確認する。

打率はほとんど10割である。

 

 

プロと素人の違い(ゴルフをしない、または興味がない人はここから読んでいただきたい)

大前提として、素人のゴルフは前に進まない。

これは、ゴルフのコースの外に打ってしまうと、打った位置から打ち直しになるからである。

ここで問題なのは、打った球がコースの外にいったか、中に残っているか微妙な時である。

飛んで行った先に辿り着いて、コースの外に出ていたとなれば、再度打った位置に戻って打ち直さなければならない。

もちろんこんなことをしていると、どれだけ時間があっても足りない。

よって、なんとかする。(暫定球を打つことが多い)

 

プロはドライバーで失敗しない。

素人はドライバーで成功しない。

何球も打ち直す必要があるが、そんなことをしているとどれだけ時間があっても足りない。

よって、一球目でコースの外に出ると、グリーンの手前の方から再スタートとなる(一般的にプレ4『プレイング4』という)

ちなみに、名門コースでは、プレ4はない。

これは、ドライバーでコースの外に出るうちはくるなということであろう。

 

プロは200ヤード以内がアプローチである。

200ヤード以内であれば、ピンのそばに飛ばせる。

素人は100ヤード程度がアプローチである。

 

プロは、グリーン(カップがある芝が短いところ)のある程度好きなところに落とせる。

素人は、グリーンに乗らない。

 

プロはパターは1打または2打で決める。

素人はパターは2打以上打つ。

 

ざっとこんなところである。

 

 

ボールをまっすぐ飛ばすのが難しい理由

ゴルフをする前は、動かない球を打つなんて簡単だろうと思っていた。

 

しかし、極めて難しい。

 

ゴルフのスイングは、バランスとタイミングが大切である。

これは、細かいところの修正点はたくさんあるが、一つでもいじると全体としておかしくなりうる、ということである。

 

野球のピッチャーが、ストライクゾーンに投げれなくなることがある。

これも、バランスやタイミングが崩れているからだろう。

 

テニスのサーブも、サッカーのシュートも同じかもしれない。

 

個人的には、バスケのフリースローは得意である。

前述したものの中で、1番成功の確率が高い。

あんな大きなボールを、あんなに小さなゴールに入れる必要があるのに、不思議な話である。

 

 

ゴルフが面白い理由

少し触れたが、ゴルフはミスばかりのスポーツである。

よってプレー中はそこそこイライラする。

同伴者の調子が悪いと、かなり気を使う。

 

マナーが無数に存在し、違反すると失礼に当たるか、喧嘩になる。

プレー中に、怒られることもしばしばである。

 

また、下手だからといって、時間をかけてしまうと、後続の方(他人)に怒られる。

かといって、早くプレーすると、雑になり調子を落とす。

 

ボールをカップに入れることがゴールであるが、カップに入った後はすぐに取り出す。

5打でカップに入ったことと、6打でカップに入ったことの違いがわからない。

 

まったく意味のない行為である。

 

半日が潰れ、一日中山の中を歩くため、どっと疲れる。

 

プレー代は1万円を超えることもあり、道具は全て持参である。

かなりお金がかかる。

 

面白い理由がまったく見当たらない。

 

それでもやめられないのが「ゴルフ」であり、「ゴルフ」の面白さである。

 

 

最後に

ゴルフの打ちっぱなしと、コースに出て打つのでは、全然勝手が違う。

 

わたしはのんびりと、打ちっぱなしで打つのが好きである。

 

打ちっぱなしは、前述のストレスはほとんどない。

 

ドライバーでスカッとかっ飛ばすのは、かなりの快感である。

 

かなり気持ちいい。

 

興味が湧いた方は、打ちっぱなしにいってみることをお勧めする。

 

地獄の始まりである。

 

 

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矛盾について〜矛と盾の間に位置するサラリーマン〜

〜読書は勉強である、勉強は投資である、投資はギャンブルである〜

 

目次

 

今日はサクッと仕事を終わらせてきた。

今朝、寒気がして喉が少し痛かったが、気がついたら治っていた。

一昔前であれば、風邪を引こうが熱が出ようが会社に行くのが当たり前だった。

しかし、今は、風邪症状があれば、絶対に出社しては行けない。

今日のわたしは出社したが。

 

今日も打ちっぱなしに行く予定である。

打ちっぱなしに行くと、首の横の方が筋肉痛になる。

振り向くのが辛い。

 

 

今日のテーマは「矛盾」である。

 

 

このテーマにした理由は、仕事の途中に、矛と盾を売りにきた後輩がいたからである。

「矛と盾はいかがっすか〜」

 

 

 

矛盾とは

「矛盾とは?」

「矛盾とは、相互に矛盾する状態や要素のことを指します。これは、言葉や行動、または考え方などの間に一貫性がないことを示す場合に使用されます。例えば、言葉と行動が一致していない場合、それは矛盾しているといえます。また、2つの異なる主張が相互に排他的である場合も、それらは矛盾していいます。」

 

矛盾の説明文に、矛盾という言葉を使うのは新鮮である。

 

?「矛盾とは、相互に矛盾していることである」

 

という、有名な政治家が生み出した構文もあろう。

 

 

矛盾の由来

楚人(そひと)に盾と矛とを鬻ぐ者有り。これを誉めて曰いはく「わが盾の堅きこと、よくとほすもの莫きなり」と。また、その矛を誉めて曰く「わが矛の利りなること、物においてとほさざる無きなり」と。ある人曰く「子の矛をもって、子の盾をとほさばいかん」と。その人こたふることあたはざるなり。

Wikipediaより抜粋)

*わたしは、文章は自分で書くのですが、『楚人』と『鬻ぐ』が全く出てこなかったので、コピーペーストしました。それぞれの言葉の意味はわかりません。

 

要約すると、

盾と矛を売りにきた

「盾は堅くて何も通さない」

「矛は鋭くてなんでも通す」

そこにいた人が

「矛で盾をついたらどうなるのか?」

と聞いたところ、何もいえなくなった。

 

という感じである。

 

矛盾の物語は、紀元前403〜紀元前221年の法家、韓非の著書らしい。

 

こんな昔に、矛盾という概念を思いついたのか!

 

 

盾と矛を売るサラリーマン

昔は「士農工商」に分かれていた。

 

武士はいなくなった。

 

農民もほとんどいなくなったと言っていいだろう。

 

国民総サラリーマン計画により、商人は爆発的に増えた。

営業職のサラリーマンは間違いなく商人だろう。

事務職のサラリーマンも、商人に近いのだろう。

 

「工」は職人らしいが、情報化社会により、専門職の割合は増えたと思う。

もっとも、この専門職も、サラリーマンであれば商人の様相を呈するだろう。

 

ここで注意すべきことは、「士農工商」という言葉は、もう使われていないということだ。

*諸説あり

 

 

現代版矛盾

今、就職試験の面接を受けるものあり。

面接官曰く

「100円の水を10000円でわたしに売ってみよ」

と。

就活生曰く

「御社に入社すれば、どれだけでも売りましょうぞ。ところで、御社では100円の水を10000円で売る必要があるのか?」

と。

面接官こたふることあたわざるなり。

 

こんなところだろう。

 

よく入社試験の問題が出回っているが、まともな企業はあのような変な問題を出すのだろうか?

これについては、後日考えてもいいかもしれない。

 

 

楚人の正解

「いつの時代の人も、時間の矢面に立たされている」というのがわたしの持論である。

 

楚人は、とっさの疑問に何もいえなくなったのは仕方がないことだと思う。

 

しかし、サラリーマンをやっていれば、楚人の気持ちが痛いほどわかるのではなかろうか?

 

会社の利益と、お客様の利益、上司の見解や自分の思いといった、いろんなものの板挟みになることは、日常茶飯事であろう。

 

楚人の気持ちはわかるが、楚人がなんなのかはわからない。

 

「矛で盾をついたらどうなるのか?」と言われたときになんといえばよかったのか?

 

わたしであれば、

「どちらも買って、試してみるがよろしい」

というかもしれない。

 

もしくは、

「あなたはどちらがほしい?あなたがほしい方が強い」

と答えるかもしれない。

 

会社に心臓を捧げたサラリーマンであれば、ほとんどの人がこのように答えるだろう。

 

これが正しいのかどうかはわからない。

 

その意味で、

「100円の水を10000円で売れるか?」

という問いにも、

「技術的にも、倫理的にも、そんなことはできません」

と答えるのが正解かもしれない。

 

 

矛盾の生き様

矛盾の話は、楚人が何も答えられれなくなったところで終わる。

 

では、盾と矛はどちらが勝ったのか?

 

これは、技術的な問題であろう。

 

盾が勝つのであれば、矛はより強くなるだろう。

そして、いつの日か、盾を貫くだろう。

 

そうなれば、盾はさらに強くなるだろう。

そうすれば、矛は盾を貫かなくなる。

 

イタチごっこである。

(*またことわざだ。)

 

ここで大事なのは、イタチごっこの結果、我々が矛も盾も持っていないことだ。

 

盾も矛も持っていないのに、「矛盾」という言葉にこれでもか!と言うくらい神経を使うのである。

 

 

最後に

矛と盾が売っていたら、どちらを買うべきか?

 

出世したいなら、矛を買って自分の成果を挙げるべきだろう。

 

しかし、出世した後であれば、盾を買って組織を守るべきだろう。

 

偉くなってからでも矛を買うのは、パワハラになるかもしれない。

 

もっとも、ほとんどのサラリーマンは、「矛と盾」を売るが、買いはしない。

 

 

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コンプライアンスについて〜お役所仕事が天下を取る〜

〜ハラスメントの防止に必要なのは、責任の制限である〜

 

目次

 

今日は月曜日であった。

今週は水曜日が休みということもあって、いつもよりも軽い月曜であった。

朝、雪が降っていた。

3月も中旬を過ぎたのに、まだ降るのか!

 

仕事終わりに、ゴルフの打ちっぱなしにいってきた。

絶不調である。

まずドライバーが全く飛ばない。

アイアンが当たらない。

ただアプローチだけ調子がいい。

そんなこんなしていると、こんな時間になった。

 

 

 

今日のテーマは「お役所仕事」である。

 

 

 

このテーマにした理由は、いつか「お役所仕事」が褒め言葉になると感じたからである。

 

 

 

お役所仕事とは?

「お役所仕事とは?」

「お役所仕事とは、一般的には政府や地方自治体なとの公的機関で働くことを指します。これらの職種では、法律や規制に基づいて公共サービスを提供したり、行政業務を遂行したりすることが主な役割です。具体的な仕事内容は、行政手続きの処理、公共施設の管理、社会福祉の支援など多岐に渡ります。」

とのことである。

 

AIは「お役所仕事」に対して、いいイメージも悪いイメージも持っていないのだろう。

 

 

お役所仕事の日常

「ここにハンコが必要です」

「ハンコを忘れてきたんですけど」

「では、ハンコを押して、後日お手続きください」

「何時間待ったと思っているの?なんとかならないの?」

「なりません」

「私たちをなんだと思っているの?」

 

というやりとりが、今でも行われているのかはわからない。

しかし、わたしのお役所仕事のイメージといえば、このような感じである。

 

 

お役所仕事の本質

前述のようなイメージをお持ちの方は多いのではないか?

極めて非効率で、全く融通が効かない。

きっと、税金で働いているので、コスパを考える必要はないのだろう!

と思う方もいるかもしれない。

 

では、お役所仕事の本質はなんなのか?

 

それは、徹底した『コンプライアンス法令遵守)マインド』であろう。

 

AIの説明の中にある、

「これらの職種では、法律や規制に基づいて」

ということを、もっと重く受け止めるべきであろう。

 

一般人にとってのコンプライアンスとは、企業理念等の順守である。

しかし、公務員にとってのコンプライアンスとは、文字通りの「法令」遵守であろう。

 

 

謝罪をできない公務員

公務員の仕事を効率的にすることができるとする。

しかし、一定の割合でミスが生じるとする。

(*ちなみに、ミスを増やすことなく効率化を図れるのであれば、すでに導入している。詳しくは「トレードオフ」で検索🔍)

 

この場合、効率的にするという選択はない。

 

民間の企業であれば、ミスをしてもある程度、柔軟な対応ができる。

 

しかし、公務員の仕事は法律で定められているため、柔軟な対応ができない。

 

民間の企業であれば、従業員の「ごめんなさい」を、従業員の誠意と受け取ることができる。

しかし、公務員の「ごめんなさい」は、公務員の誠意とは受け取りにくい。

 

公務員には、お詫びに渡す“商品券“がない。

 

 

誰が1番辛いか?

さて、前述のハンコのくだりで1番辛いのは誰であろうか?

 

大半の人は、再び手続きが必要になった人だと思うだろう。

 

しかし、わたしは「お断りしなければならない公務員」ではないかと思う。

 

「これくらいいいじゃん」というのは、誰よりも公務員が思っているのかもしれない。

 

もしくは、徹底してそのような考えを持たないような教育を受けているのかもしれない。

 

待たせておいて、お断りしなければならない。

絶対に反発されるけれども、絶対に曲げることはできない。

 

これが、ルールに基づいたものであれば、ある程度割り切ることができるかもしれない。

 

しかし想像してもらいたい、自分のミスで不利益を被った人に対して、謝ることもできない「立場」というものを。

 

*断っておくが、わたしは公務員ではないため、公務員の考えていることはわからない。

 

 

コンプライアンスマインド

さて、前述のハンコのくだりをもう少し噛み砕いてみる。

 

一見すると、公務員の柔軟性のなさが問題のようにも見える。

 

おそらくそれが普通の考え方だろう。

 

しかし、「なんとかならないの?」というのは、手続きをした人が公務員に対して、「ルール(法律)を破れないのか?」と主張しているのである。

 

ルール(法律)を破るわけがない。

 

 

話を少し大きくする。

 

例えば、「なんとかならないの?」といった人のお言葉に甘えてなんとかしたとする。

 

しかし、後日、「なんとかならないの?」と言った人にとって、不都合な情報が出てきたとする。

 

その人から「その書類にはハンコがないので有効ではない!」と言われたときに、公務員はどうすればいいのか?

 

少なくとも公務員は法律に縛られているため、お言葉に甘えた代償を回避することは難しいだろう。

 

この考えは、いずれ民間の企業にも広まるかもしれない。

 

そのとき、「公務員の窓口対応の方法」ブームが来るように思う。

 

「お役所仕事のすすめ」というセミナーが至る所で開催されるかもしれない。

 

それは、「カスタマーハラスメント(カスハラ)」の撲滅にもつながると思う。

 

「なんとかそちらのルールを破ってはもらえないか?」という、メチャクチャな要求は無くなるかもしれない。

 

遠くに、「公平」や「平等」という言葉も見え隠れする。

 

同時に、「自由」や「裁量」という言葉が、確実に見えなくなっていく。

 

 

最後に

わたしは公務員を尊敬している。

 

今でこそ認知されていると思うが、公務員は激務である。

 

責任の重さは、そこらへん(わたしを含む)の会社員とは比べ物にならない。

 

それでいて、そんなに感謝されない。

 

昨今の公務員離れに寂しさと危機感を覚える。

 

「日本を良くするために、官僚になりたい!」と思う若者が増えてほしい。

 

「第一志望の民間企業に行けなかったから、滑り止めの公務員になった」では悲しいではないか!

 

わたしは何があっても、公務員にはなりたくはないが。

 

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風について〜日本に存在するブラックホール〜

〜いつの時代の人も、時間の矢面に立たされている〜

 

目次

 

朝起きたら、猛烈にメンタルが回復していた。

微笑ましいことだ。

本を読むか、2日間書いてなかった日記を書くか少し迷って日記を書いている。

いつも夜に日記を書き始める。

大体30分〜1時間くらいで書くのだが、昨日のように調子が出ないこともある。

今日は、確実に日記を作りたかったので、朝の時間に書いている。

今日は、昼からジムに行こうと思う。

しかし、久しぶりにゴルフの打ちっぱなしに行ったため、全身筋肉痛であり、行かないかもしれない。

 

 

 

というわけで、今日のテーマは「風」ついてである。

 

 

このテーマにした理由は、風が強いからである。

 

 

風とは

「風って何?」

「風は大気中の空気の移動です。地球の気温や気圧の違いによって引き起こされ、さまざまな要因によって形成されます。風は地球上の気象情報の一部であり、植物の種子の散布や気温の調節など、多くの役割を果たしています。」

「空気と大気の違いは何?」

「空気は地球の大気の一部であり、大気は地球を覆う気体の層全体を指します。つまり、大気は空気を含む空間全体を指すのに対して、空気はその中の特定の気体を指します。」

 

とのことである。

わかるようなわからないような感じである。

 

ちなみに、わたしはあまり浮力を理解していない。

少しずつ勉強中であるが、相対性理論を考える上では重要になると思う。

 

 

風が見える人

以前の日記で多少記載したが、パイロットは航行中に、地表近くの煙突の煙を見て、風の方向や強さを推測するらしい。

同じ要領で、もしくはさらに強い能力を鳥たちは持っているのかもしれない。

虫に紫外線が見えるように、鳥にも風を見る方法があれば面白いかもしれない。

念のため断っておくが、わたしは鳥ではないため、鳥の考えていることはわからない。

 

少し話は逸れるが、医学書に「病気が見える」という本がある。

これは顕微鏡で病原菌を見るということではない。

症状や検査所見、予後等その病気の全容がわかるということである。

よって、風が見えるの「見える」というのは、文字通りの「目で見えること」と、「わかること、理解すること」という意味の両方で考えている。

 

そう考えると、等圧線を解読できる気象予報士も風が見えるのかもしれない。

 

ゴルファーや野球の外野手も風が見えるのかもしれない。

 

特に後者は、風を小脳あたりで見ているのかもしれない。

 

 

概念としての「風」

最近、麻雀のMリーグを見ている。

その中で、公式実況の日吉辰哉さんという方が、「風」という言葉を使う。

詳しい定義はないが、「運」や「流れ」といった言葉であろう。

 


www.youtube.com

 

この「風」には追い風も向かい風もある。

 

この「風」を読むことができるのはどんな人か?

 

まず、経営者等の船頭さん(航海士は本来の意味の風になろう)は「風」がよめる必要があろう。

まさに今、1番触れたくないことだが、優秀な投資家も「風」がよめるのだろう。

 

しかし、逆に考えれば、「風」に乗ることができた経営者や投資家だけが残っているのかもしれない。

「風」を積極的によめるのではない。

結果的に、「風」に乗ることができた人だけが残る、という仮説である。

そう考えると、「風」に乗ることができなかった(わたしを含め泣)人は消えていく。

 

この概念を一言で言い表すと、「風化」ということになるのかもしれない。

実体の持たない、概念の世界に逃げても、わたしを「風化」させようと、「風」は追い剥ぎのように追ってくるのである。

そして、この「風」は「追い風」ではない。

 

 

 

文学的な風

「今日のわたしの心には、風が吹いている」

 

この文章が、ポジティブなものなのか、ネガティブなものなのかはわからない。

追い風なのか、向かい風なのかがわからないからである。

しかし、「風が吹いている」と言われれば、第一印象は追い風であり、ポジティブなものだろう。

 

 

「今日のわたしの心には、強い風が吹いている」

「今日のわたしの心には、弱い風が吹いている」

 

この文章も、ポジティブなものなのか、ネガティブなものなのかはわからない。

この文章には、時間が必要であり、いつと比べて強いまたは弱いのかを定義する必要があろう。

また、方向も大事である。追い風なのか向かい風なのかもわからない。

見方を変えれば、主観が強く、情報が少ないということかもしれない。

 

 

「今日のわたしの心には、冷たい風が吹いている」

「今日のわたしの心には、温かい風が吹いている」

 

この文章が、ポジティブなものなのか、ネガティブなものなのかはわかりやすいように思う。

強い、弱いに比べて、主観が弱いということなのだろうか?わからない。

ただし、この文章のポジティブ・ネガティブを決めるのは、「温度」である。

よって、風を吹かせる必要はない。

 

 

「今日のわたしの心は、晴れている」

「今日のわたしの心には、雨が降っている」

「今日のわたしの心には、雪が降っている」

 

ここらへんの文章は、なんとなく、その人の心情を表していると思う。

雨と雪の違いは、後を引くか否かというところにあるのかもしれない。

 

 

「今日のわたしの心には、水素分子が舞っている」

 

この文章はわからない。

何を言いたいのかもわからないし、科学的に正しいのかもわからない。

もっと言えば、晴れているのか、雨が降っているのか、雪が降っているのか、湿度が高いのか、風が舞っているのかもわからない。

 

 

風と「空気」

風とは空気の移動である。

そう考えると、少しだけ拡大解釈をすれば、風を読むことは「空気を読む」ことになろう。

 

 

人間における「風」

気象庁のホームページには、風が吹く理由について「空気はとなり同士でいつも“おしくらまんじゅう“をしているようなものなのです」と書いてある。

 

話を極めて大きくしよう。

 

前提として、「いつの時代の人も、時間の矢面に立たされている」というのがわたしの持論である。

 

その上で、今、おそらく過去で1番多くの人類が生息していると思う。

*日本の人口が減っているのは、何を意味するのかはわからない。

 

そう考えると、自然に導き出せるのは、「人間もおしくらまんじゅうをしているのではないか?」ということであろう。

 

ここ数世紀で、交通網が異常に発達しているように感じる。

 

これは、人間がおしくらまんじゅうを始めたからであり、人間が移動する(風になる)必要が出て来たからではなかろうか?

 

 

東京の風

ただし、前述の考えには大きな矛盾点がある。

 

それは、日本人が東京に集まるということである。

 

人間同士が、人口密度を争っておしくらまんじゅうをしているのであれば、東京「から」猛烈な風が吹くのだろう。

 

しかし、実際は東京「に向かって」非常に大きな風が吹いている。

 

我々は、何に押されて東京に流れるのだろうか?

 

夢か?金か?欲望か?需要か?

 

全て同じ意味のようにも思うが・・・

 

 

最後に

日本人の「東京への風」を遮る候補が、リモートであろう。

 

今後、リモートが定着すれば、日本人の東京への移動が少なくなるかもしれない。

 

そうなれば、東京に行く理由は「お金」や「需要」といったことになるのかもしれない。

 

そうならなければ、東京自体に何かしらの引力があるのだろう。

 

食べ物かもしれないし、ファッションかもしれないし、エンタメかもしれない。

 

しかし、これらのコンテンツも、全国展開等により、東京を離れることができれば、「東京への風」は弱まるかもしれない。

 

それでも「東京への風」がやまないのであれば、東京は「ブラックホール」なのかもしれない。

 

東京が「ブラックホールなのか?」を考える上では、少なくとも、光、エネルギー、重力、質量等を理解しなければいけないのだろう。

 

「東京がブラックホールである」ことを証明できると、相対性理論が理解できる気がした。

 

 

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本日も投稿を中止いたします。

本日も投稿を見送ります。

 

シンプルに、昨日の爆損のショックを引きずっている感じですね。

 

昼頃に10キロほどウォーキングをしたあと、ゴルフの打ちっぱなしにいったんですが、あまり気が晴れませんでした。

 

4時間ほどかけて、なんとかひとテーマ書いたのですが、イマイチの出来なので明日以降ブラッシュアップします。

 

軽くネタバレですが、テーマは「悪魔」で、悪魔は非人道的だが基本的に契約を守るのに対して、人間は人道的であるがゆえに契約を守らないこともある、という内容です。

テーマは「地獄」でもいいかもしれませんね。

 

ちなみに、さっき気づいたんですけど、今「舟を編む」のドラマやってるんですね。

イムリーなのか、その情報を無意識のうちに聞いていたのか分からないですが、本の方はおすすめです。

 

初めて敬体で文書を書いたんですけど、なんか変な感覚ですわ。

 

明日は投稿しますので、よろしくお願いいたします。