今日も小一時間ほど散歩をしてきた。
昨日とは打って変わって、冬らしい冷たい風が吹いていた。
こんな日は、生き死にに関わるようなテーマがおりてくることが多い。
天から降りてきた哲学のテーマは『運』についてであった。
*もっと書き出しを上手くなりたい(笑)
『運』の本質について、自分の力では直接的にアプローチできないので、人工知能さんに聞いてみたところ、
「一般的には人生や出来事における幸運や不運を指します。これは個人の信念や文化によって異なり、時には偶然や運命と関連づけられることもあります。」とのことである。
なるほど、深い。
私の所感としては、『運』とは実力や努力でカバーできないものと考えている。
もっといえば、自分でコントロールできない部分である。
たとえば、プロ野球選手になりたい人がいるとする。
プロ野球選手になるためには、高度の野球の能力が必要となるのは自明である。
しかし、いざプロになるためには、プロ野球選手になりたい当人の努力や実力(能力)だけでなく、獲得する側の球団の事情が大きく関わってくると思う。
この、獲得する側の球団の事情が『運』である。
球団の事情に合わせて能力を調整することができれば、それは能力となりうるが、中長期的な視点で、なおかつ極めて高度なスキルを調整することは不可能であろう。
その意味で、球団の事情はコントロールできない『運』であると考えるのである。
もっとも、重要なのは『運』とは何かというよりも、なぜ我々の人生は、このコントロールできない『運』にこれほどまでに振り回されるかである。
裏返すと、我々は『運』をコントロールできないのに、なぜ『運』に対して無関心にはなれず、縛られてしまうのであろう。
ここで『運』が、人生を左右しない世界とはどういうものなのだろうという点も気になるが、これについてはいつの日か、散歩中に考えたいと思う。
昔、将棋棋士の米長邦雄先生が、『運を育てる』という本を書かれていた。
将棋の世界も、運が関与しているようだ。
ただし、『運』とは我々がコントロールできないのもであると仮定すれば、その『運』をもコントロールしようというのは傲慢ではないのだろうか?
もしくは、『運』はコントロールできないから仕方ないと割り切れるのは、すでに悟りの境地に足を踏み入れているのだろうか?
『運』というのは考えれば考えるほど、厄介なものである。
『運』を真剣に考える学問はあるのだろうか?
少なくとも『運』を高める授業があるとすれば、それはいかがわしいものであるとの印象を受ける。
意思を持たない(と私が勝手に思っている)、微生物にも『運』は存在しているのであろう。
少なくとも、人間である私には彼らにも『運』が存在しているように思える。
しかし、彼ら自身はそれを『運』とは思っていないのかもしれない。
恐竜をはじめ、絶滅していった種たちは、最後の日に、『運』が悪かったと思ったのだろうか?
もしくは、『運』をもっと細分化し、高次に解読し、コントロール可能と考えていた文化があったのだろうか?
『運』をコントロールできるようになると、『運』という概念は無くなってしまうのだろうか?
そんな日は来ないような気がする。