文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

アイデアについて〜どこで醸造するのか〜

今日は寒い1日であった。

いよいよ冬本番、といったところであろう。

そんな中、30分も散歩をしてきた自分を褒めてあげたい。

 

今日のテーマは「アイデア」についてであった。

 

情報社会における最大の資源は「アイデア」なのである。

*情報社会については、後日哲学したいと思う。

 

日常的に「アイデア」をストックしている方は、少なくないと思う。

私も毎日日記をつける、と決意してから、「アイデア」をストックしている。

ここにおけるストックとは、自分の中に留めておくという意味である。

しかし、私について言えば、いまだブログに記載せず、頭の中にとどめたり、携帯電話のメモ欄に箇条書きにしたりしたまま、アウトプットしていない状態のことだ。

 

正直なところ、散歩中に複数のテーマが降りてくることがある。

そんな時は、もっとも手応えがあり、面白いと思うものを、日記のテーマにしている。

 

その理由は二つある。

 

一つ目の理由は、面白いと思う「アイデア」が、アウトプットという強度に耐えうるかを確認するためである。

頭の中では面白く、携帯電話のメモ欄に箇条書きにしてもそこそこ面白いが、いざ日記という最終段階のアウトプットにすると考えがまとまらない時がある。

これを確かめるには、実際に日記というフォーマットに落とし込むしかないのである。

この点で、日記の中でもブログは、他人から見られるかも知れないという緊張感があるため、推敲や校閲といった工程をサボれない。

よって、強度の高い、しっかりと背筋の伸びた文書を作成できるのである。

また、運が良ければ、自分がアウトプットした「アイデア」のフィードバックが得られるかも知れない。

 

二つ目の理由は、面白いと思う「アイデア」を頭の中にストックしておくと、何度も思い出してしまうからである。

それもそのはず、手応えがあるため、思い出すたびに楽しくなるのだ。

ここで重要なことは、同じことを何度も思い出すものの、そこに新しいアイデアが付け加えられることはあまりないということだ。

つまり、面白いと思った「アイデア」を、頭の中にストックしておくだけで、新しい「アイデア」を思い出す機会(時間)を逸してしまっているのである。

また、面白いと思っている「アイデア」も、いつかは忘れてしまうかもしれない。これは、由々しきことである。

 

日本には、出し惜しみという言葉がある。

確かに、とっておきの切り札が常に自分の中にあると、安心することができる。

しかし、こと「アイデア」において、出し惜しみは有効なのであろうか?

 

私は、自分自身の最大限の出力をし続けることこそが、成長、つまり思想を深めていくことにつながると考えている。

常に背伸びをしている人が、一番背が伸びるのだ。

 

また、先に述べた忘却と似ているが、思考力もまた、年齢と共に深まるとは限らず、むしろ退化すると考える。

 

つまり、「アイデア」は、頭の中に置いておくことよりも、順次、アプトプットされた形で残しておいた方が、高いクオリティが保てるのだ。

 

可愛い子には旅をさせよという言葉があるが、自分が面白いと思う「アイデア」こそ、アウトプットや他者の声と言った厳しい状況下に置かなければ、腐ってしまうのである。

 

今日の日記も、頭の中ではもっと面白かったが、日記にしてみると、面白さの半分も伝えきれていないような気がする。

熟成が足りなかったのか?