文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

文章について〜毎日1,000字以上の日記を3ヶ月書いて気づいたこと〜

〜もっとも簡単な現実逃避は、初心に帰ることである〜

 

目次

 

今日は日記を書く前に、ゴルフに行ってきた。

スランプ大統領である。

スライスもチーピンも出まくる。

ただ、ドライバーのキャリーは出ていた。

多分、ゴルフをしない人にとっては、なにもわからないと思う(ごめんなさい)

 

 

 

今日のテーマは「毎日1,000文字以上の日記を3ヶ月継続して、気づいたこと」である。

 

 

このテーマにした理由は、なんとなくである。

いつも、なんとなくである。

 

そういえば、まもなく100記事達成である。

なかには、投稿キャンセルの記事も含まれているため、どの記事で100記事になるのかは微妙なところである。

 

 

観察について

このブログの目的は、世界を深く観察することである。

相対性理論なんてどうでもいい。

(*昨日も記載したが、やはり相対性理論関係の日記は、誰も読まない涙)

 

ブログをつけ始めた頃は、随分と前に、紙の日記に書いていた事柄などを膨らまして書いていた。

最初の20記事くらいはそうであろう。

 

その後は、適当に思いついた「テーマ」を深掘りしていった。

浅いかもしれないが。

 

日常生活の中で、不思議なことがあると、メモを取るようになった。

そして、そのメモが使えそうであれば、日記のなかに組み込んだ。

 

なんとも形容し難いのだが、ブログをつけるようになって、観察力は随分と上がったように思う。

 

 

本を読むことと、本を書くこと

『いい文章を書きたいならば、いい文章を読まなければならない』

というようなフレーズがあるかもしれないし、ないかもしれない。

 

しかし、ブログを3ヶ月間継続して思ったことは、文章を読み解くスキルと、文章を書くスキルは別物だということである。

 

よって、正しくは、

『いい文章を書きたいのであれば、いい文章を書かなければならない』

となろう。

 

 

文章を書くのが先か、読むのが先か?

早速、前の事項と矛盾するのだが、引用は大切である。

 

多分わたしの文章は引用がファジーである。

伸び代しかないわ🎶

 

いい引用をするには、それだけのストックが必要である。

 

結果、いい文章を読まなければならない。

 

なんやねん!と思われるかもしれない。

 

しかし、文章を書くことで、文章の読み方は変わる。

 

どの言葉が、今の自分に大事だろう?

という読み方が、

 

この言葉は、自分で考察してみたいぞ!

この言葉は、矛盾しているのではないか?

この言葉は、別の筆者の意見と無逆だぞ。どちらが正しいんだ?

この言葉は、今日の「テーマ」の軸にしよう!

となる。

 

読み方に、具体性が出る。

読み方の筋がピシッと通る。

 

結果、本を読むのがものすごく遅くなった。

 

 

文書術に関するおすすめの本

わたしは、このブログを書き始めるまでは、ある程度まとまった分量の文章を書くことは、多くなかった。

 

しかし、何十冊もの文章術の本を読んできた。

 

個人的に、もっともおすすめなのは、

 

『取材・執筆・推敲ー書く人の教科書(古賀史健著)』

 

である。

 

ぜひ読んでもらいたい。

この本を読んだときに、推敲の重要性を噛み締めた。

しかし、このブログはほとんど推敲していない。

 

 

構成のジレンマ

個人的に、文章を書くようになって、1番強く感じたのは、「構成」の難しさだ。

 

観察力については、前述した。

そこら辺を見渡せば、一つくらいはテーマが見つかるようにはなった。

 

しかし、そこで見つけた「気づき」を、その日のブログの「もっとも言いたいこと(以下オチ)」にするのは、とても難しい。

 

当たり前であるが、その「オチ」にたどり着くための、前振りのようなものが必要となる。

 

 

例えば、

今、わたしの机の上に、「国語辞典」と「英語辞典」がある。

「英語辞典」の方が少し分厚い。

これは、英語の方が、言語としての情報が多いということではないのか?

となったとする。

 

その「気づき」を軸に、構成を組み立てるが、途中で、

「そもそも、英語辞典には、英単語と日本語説明の両方が書かれているから、そりゃ英語辞典の方が分厚いよな」

となったとする。

そこで、試合終了である。

諦めなくても、試合終了である。

こういうことはよくある。

 

この例は、「オチ」と「前振り」の説明ではないような気もする。

しかし、このように、自分の意図しない方向に話が進むことがよくある。

 

よくいえば、「気づき」を一本のブログの中に入れることで、その周辺の「気づき」との違いやグラデーション(またはコントラスト)がわかる。

 

しかし、自分がいちばんメインの「気づき」だ!と思っていたことでも、並べてみるとそうでもないことがよくある。

 

すると、頭の中で組み立てていた構成がグニュと曲がる。

 

昨今、『構成はしっかりしておいた方がいい』勢と、『構成はフレキシブルであるべきだ』勢が、わたしの頭の中でディベっている。

 

 

言葉の限界

よく、

「言葉は、思考を制限する」

という旨の言葉が散見されるかもしれないし、されないかもしれない。

 

確かに、頭で考えていることを、そのまま言葉にしようとすると、とても難しい。

 

前述した、「構成」の容易な破綻がその証左かもしれない。

 

しかし、頭の中ではもっといい物語だった!と作者に言われても、なんともできないだろう。

 

どれだけ大きな絵を頭の中で描いたとしても、言葉にできなければ、「絵に描いた大きな絵」にしかならない。

 

強い表現を使うと、

意思疎通の手段はとても限られている。

よって、そこをパスできないものは、ないのと同じだ!

と言えるかもしれない。

 

例えば、

『わたしは相対性理論をすでに思いついている。ただ、表現できないだけである!』

と言われて、信じる人はいるだろうか?

多分いないはずである。

それを言って信じてもらえるのは、フェルマーラマヌジャンくらいだろう。

(*もっとも、前述の通り、相対性理論関連のわたしのブログはそもそも読まれない)

 

 

言葉の歩き方

最近よく思うのだが、文章を書いているうちに、あれもこれもと思いつく。

 

「構成」を重視しなくなってから、日記がのびのびと歩き回るようになった。

 

これを「筆が走る」というのだろうか?

 

それとも「手なり」というのだろうか?

 

イデアが次々に湧いてくる。

 

面白いのは、そのアイデアが、『「イメージ」ではなく「言葉」として浮かんでくる』ことである。

 

 

言葉の箱根駅伝

わたしは走るのが嫌いである。

 

一時期書いていたが、ジムのトレッドミルで走っていた。

距離は大体400〜800メートル程度である。

今も、ささやかながら走っている。

 

1,000文字以上の日記を毎日書こう!と決めた当初は、体感的には2,000メートル程度走っているようなものだった。

 

徐々に慣れた。

 

今でも、一日1,000字以上のルールは変わらないが、今日のブログなんかでも3,000文字をゆうに超えている。

 

体感的には30メートル程度走っているようなものである。

 

長い文章を書けるというのは、一つのメルクマールになるだろう。

 

しかし、ダラダラと書かれた長い文章よりも、中身がギュッと詰まった短い文章の方がいいに決まっている。

 

「長い文章が正義(ジャスティス)」という時代は終わった。

 

誰にも知られず、私の中だけで、パラダイムシフトが起こった。

 

 

オチ

では、今日の日記を通して、何が言いたかったのか?

 

「これだけ、文章に対して能書きを垂れているのだから、さぞかし面白い「オチ」が待っているのだろう。」

 

「今まで、つらつらと書かれた文章を黙って読んできた。全部前振りだったんだろ?で、「オチ」は?」

 

そんな声が聞こえる。

 

まあまあ落ち着いてください。

 

「オチ」は用意している。

 

 

今日、もっとも言いたかったこと、

 

 

それは、

 

 

 

『オチが思いつかなくても、文章は書ける』

 

 

本日も読んでいただき、どうもすみませんでした。

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