文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

正しさについて〜あやふやな話〜

〜思ったよりもサングラスを使うタイミングはない〜

 

今日はあまり雪が積もっていなかったので、嬉しかった。

昼間に雪が降っていたが、その後には青空も広がっていた。

雪上がりの青空は、雨上がりの青空よりもうつくしい。

まさに水墨画の世界であり、近くの山が不気味なほどに飛び出してくる。

ジムに行くかは、今でも迷っている。行けたら行こうと思う。

 

 

今日のテーマは「正しい」である。

 

 

このテーマにした理由は、今日のニュースが盛りだくさんだったからである。

 

 

まずは、京アニ事件の判決が出たことだろう。

何よりも、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。

事件の詳細や裁判の詳細についての記載はもちろん控える。

 

ここで述べたいのは、裁判官の判断に間違いはあるのか?ということである。

 

私は、今までの人生で、法律というものを体系的に勉強したことはない。

しかし、司法試験の勉強をしている友達に、勉強内容を教えてもらった。

とんでもなく難しい内容を、とんでもない量学んでいた。

よって、法曹関係の方を心から尊敬している。

 

ここで本題に戻るのだが、「正しい」とはなんなのだろうか?

ちなみに、法律的なアプローチとしての正しさは、司法試験の学習内容に含まれていると思う。

そのため、私なりの考えをまとめる。

まず、裁判官は猛烈に法律の勉強をしている。

日頃から論理的な考え方をしているところを何度も見てきた。

よって、その場のノリや感情で判断することは少ないだろう。

もちろん、私のような変な考え方が通用するわけもない。

となれば、逆張りのような考えもしないだろう。

一方で、判例の動向を追うのは欠かせない。

その意味で、自分の出した判決が当事者のみならず、今後の判決のトレンドにもなるという側面もあるのだ。

まとめると、法律を極め、感情を論理的思考で埋め、順張りも逆張りもせず、かつその時々の動向を掴んで判断するのである。

もちろん、法律以外のさまざまな分野の専門知識が必要となるだろうが、その都度専門家の意見を聞いて判断するのだろう。

そのうえで、日本では三審制が取られている。

また、裁判員という制度も導入されている。

そう考えると、その判断に「正しくない」ということはあるのだろうか?

よほどのことがない限り、私は「正しい」のではないかと考えている。

私の悪い考えの一つであるが、私なんかに裁判官の判断に物申すことが許されるのかとも思ってしまうのだ。

 

とまあ、色々述べてきたが、以前のブログの「古きあしき考え(1月17日)」でも触れた通り、我々が思いつきで感情的に批判的な意見を述べることがあるが、こと判決に関しては、とんでもないレベルの裏付けられた考えがあるということだ。

 

何か斬新な考えができないかと考える一方で、今日述べたように訳のわからないブレーキがかかる。

自分というものがわからない。

こんな人間の判断が、一番あやふやなのだろう。