文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

コメンテーターについて

〜1人で抱くのは夢、みんなで抱くのは目標〜

 

今日はクリスマスだったが、特に何もなく過ぎて行った。

 

個人的にはクリスマスが過ぎると、いよいよ年越しという気分になるが、これは私に限ったことではないのだろう。

 

 

今日のテーマは「コメンテーター」であった。

 

 

早速話は変わるが、私はブログを書く上で気を付けていることがある。

 

 

一つ目は、誤字脱字がないこと。

 

これについては当たり前であるが、何度見直しても誤字脱字は発生してしまう。

 

また、文書の流れがしっかりできているかということも注意している。

 

具体的には、文頭の接続詞を意識すると言うことである。

 

私の文書には省略できる接続詞も多いと思うが、文書を書き慣れるまでは極力省略しないように心がけている。

 

 

二つ目は、自分が分からない言葉は使わないこと。

 

そもそも思想を深めることが目的であるため、定義があやふやな言葉があれば、そこから先の哲学は怪しくなってしまう。

 

難しいことを出来るだけ簡単な言葉で書くことを心がけている。

 

 

三つ目は、オリジナリティがあること。

 

もっとも、これだけ自由に情報の発信ができると、誰かが同じようなことを言っているかもしれない。

 

また、新しい発想は、無からやってくるのではなく、既存の情報の延長上にあると考えているため、どこからがオリジナリティのあるものになるかは難しいところである。

 

その中で、しっかり自分で考えたものを、自分の言葉で文書にすることを心がけている。

 

 

そして、最も気をつけてつけていることは、自分の考えをしっかりと発信することである。

 

大昔、自分が学生であるときに、英語の先生から「日本人はI think 〜と文書を始めるが、なぜなのか?」と聞かれたときにハッとした。

 

日本語においては、文書の最後の部分に「〜と思う」という言葉を使うかということであるが、私は極力使わないようにしている。(意識しても、かなり使ってしまうのである。いつか、I thinkの必要性について哲学することも面白いかもしれない)

 

また、ここが最も重要であるが、コメンテーターにはならないということである。

 

決してコメンテーターという職業を侮辱している訳ではない。

 

 

しかし、私はかねてから、コメンテーターとプレイヤーは全く別物であるということを意識している。

 

コメンテーターの役割は何か?

 

それは、物事の問題点を指摘して、周囲の人に考える必要性を呼びかけることである。

 

 

ここで重要なのは、コメンテーターは問題点を指摘することがメインであるため、具体的な解決方法は提示する必要がない。

 

一方でプレーヤーは、具体的な解決方法を提示しなければならない。

 

その意味で、プレーヤーとコメンテーターは全く別の存在なのである。

 

このことを意識して、ワイドショーを見るだけで、世界が随分と変わって見えると思う。

 

例えば、大谷選手が不調なときに、コメンテーターはこのまま調子が戻らなければどうなるか?ということを議論することはできる。

 

しかし、コメンテーターが代わりに野球の試合に出ることはできないのである。

 

上記の例は、当たり前のことである。

 

しかし、政治や社会問題となったときに、プレーヤーとコメンテーターの垣根を容易に超えてしまう人が続出する。

 

厳しい言い方をすれば、具体的な解決方法がないのであれば、プレーヤーにはなれないのだ。

 

このことは、「選挙」を国民の義務としている、民主主義国家の日本では、相反する考えのようにも感じるが、私自身それについての具体的な解決方法は持ち合わせていないので、何とも言えない。

 

このブログにおいて、プレーヤーになるとはどういうことか?

 

それは、疑問に思ったことや深く考えた哲学に、自分なりの答えを出すということである。

 

それが正しくても、間違っていても、自分がどういう立場を取るかを出来る限り明確にするのである。

 

 

あくまで私見であるが、コメンテーターを演じていると、世界を理解したような、全能感のようなものを得ることができる。

 

しかし、どんなに叩かれていても、主役になれるのはプレーヤーだけなのである。