文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

言葉にすることについて。〜テーマの重要性を実感した日〜

〜ざんぎり頭を叩いてれば、コンプラ違反の音がする〜

 

 

今日は、午前中にジムに行ってきた。

胸と腕の筋トレをした後に、2キロだけ歩いた。

その後、500メートル走った。

ジムの帰りに、なか卯の旨辛親子丼を食べた。

丼ものはダイエットに良くないと聞くため、基本的には制限しているが、親子丼だけはよしとしている。

特に明確な理由はないが、脂質が低いからである。

 

夕方に、外に歩きに行こうとした。

歩き始めるとすぐにポツポツと雨が降ってきた。

雨宿りしていると、すぐに雪に変わった。

3月というのに、真冬の世界だった。

これがなごり雪というものなのか?

なごり雪にしては本降りではなかろうか?

しばらくすると青空が広がった。

しかし、風が凍えるように冷たかったため、歩くのを断念した。

 

雨ニモカテズ

風ニモカテズ

雪ニモ冬ノ寒サニモカテヌ・・・(中略)

 

 

今日のテーマは「言葉にすること」についてである。

 

 

このテーマにした理由は、山よりも高く海よりも深い。

不本意ながら、真面目な話をすると、今日は言葉について調べていた。

「言葉にするということは、思考を制約するのか?」というテーマである。

この真理に辿り着いたときに、ブログというものの考えが改まるような気がした。

昨日のノリで、AIに聞こうとも思ったが、これに関しては自力で考えたい。

AIに聞けば思考が制約される、という仮説が潜在意識の中にあるのかもしれない。

「ごめんな」

「大丈夫です。何かお手伝いできることがあれば、お知らせくださいね」

 

 

第一印象としては、思考は言葉にすることによって制約されると感じる。

理由としては、日記を書いている今でもそうなのだが、思っていることをうまく言語化できなかったり、文章にしてみると思っていたニュアンスと違ったりするという点である。

 

 

反対意見としては、制約されないということになる。

まず、言語化能力については、訓練によって解消される。

さらに、言葉にすることによって伝わる思いもある。

その意味で、言葉にすることはむしろ複数人いる場合、思考を拡張させる有効なツールである。

または、言葉にすることで、思考が整理されることもあるだろう。

この日記の目的の一つに、思考の整理があるのをお忘れなのか?

 

 

なるほど。

結論はどちらなのか?

わからない。

迷宮入りである。

お手上げである。

幾度となく脳内公判が催されたが、双方弁護人ともに「異議あり!」と発言するだけで、何の解決にもつながらない。

彼らは思考を制限されているか、思考していないかのどちらかであろう。

 

 

今回の敗因は、「『言葉』が思考を制約するか」ではなく、「『言葉にすること』が思考を制約するか」というテーマにしたことであろう。

前者と後者では、微妙にニュアンスが違うのである。

初めはしっかりと後者のテーマで考えるのだが、途中から前者のテーマにすり替わってしまう。

また、「言葉にする」や「思考」というものの定義もあやふやだったように思う。

「言葉にする」という言葉の、「主張する」や「表現する」に重きを置くのか、「記録する」に重きを置くのかによって、話は大きく変わってくるように思う。

「制約するか?」という消極的な表現も良くなかったような気がした。

まとめると、テーマの全てのセンテンスが良くなかった。

反省!反省!

 

言葉というのは難しい。

とはいえ、今日の失敗をもって、言葉にすることで思考は制約されるとは決していえないだろう。

 

 

 

今日はここらへんにしておこう。

今日一日中考えていたのに、変な結論しか出なかった。

私にとって、今日という日はなんだったのか?

 

(中略)

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナッタ