文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

忙しさについて〜忙しいことは幸せなのか〜

〜駅のないところで電車は止まらない〜

 

華やかな街が過ぎ去り、至る所で新年を迎える準備が完成した。

 

私はどこか、世界に1人だけ取り残されている気分になった。

 

と、少しだけ凝った感じの冒頭にしてみた。

 

 

今日のテーマは「忙しさ」についてである。

 

「忙」しいという言葉は、心を亡くしていると書く、というのはよく言われていることである。

 

裏を返すと、「暇」という漢字は、心を取り戻しているという意味なのだろうか?

 

 

最近、少しネガティブな日記が続いているような気がする。

 

今日は、それに輪を掛けて暗い日記になるかもしれないし、ならないかもしれない。

 

 

哲学に必要なものは、1%のひらめきと、99%の暇であろう。

 

ここでいうひらめきとは、私にとっては「テーマ」であり、テーマさえ降って来れば、自由にその周りを歩くことができる。

 

暇であれば暇であるほど、テーマを深く掘ることができる。

 

さて、テーマを深く掘るという行為は、精神衛生上良いものなのか?

 

コトバンクによると哲学者とは、

①哲学の研究をする学者。哲学家。

②(比喩的に)現実ばなれした考えをもつ人。また、深刻ぶったりする人。

とのことである。

 

なかなか手厳しい定義である。

 

この中で、「現実ばなれした」というところに、何となくではあるが違和感を覚える。

 

というのも、私が哲学をするときに心がけていることは、できる限り本質に近づこうというものであるからだ。

 

その意味で、哲学をするというのは、現実から離れることではなく、むしろ現実の中心部にある核に飛び込んでいくような作業ではないのだろうか?

 

と思うと同時に、哲学をするときには目の前の常識を疑うことが近道になることが多い。

 

このことを、人生に当てはめると、

 

何のために生きているのか?幸せとは一体何なのか?

 

ということになってしまう。

 

学生時代に、これらのことを深く考えたこともあったが、ひどく虚しくなるだけであった。

 

結論としては、人間が生きているのは当たり前であり、そこに疑問を持った段階で、かなり精神的に参っているということであった。

(いつか、生きる意味についての哲学を記してみたいとは思う)

 

そのため意識的に、これらの精神的に繊細なことは哲学しないようにしている。

 

しかし、意識していても、頭が勝手に生きる意味や幸せについて論理的なアプローチをしようとしてしまう。

 

 

哲学がいいものかどうか、テーマを深く掘ることがいいことかどうかについては、テーマとその方向によると言わざるを得ない。

 

難しいのは、哲学的に正しいことが正しいわけではなく、哲学的に間違っていることが正しくないわけではないことである。

 

哲学的に正しいものであっても、とんでもない人生の迷路に迷い込んでしまうこともあるのだ。

 

と、極めて抽象的な話になってしまった。

 

 

最後に、忙しいという状況は、生きる意味や幸せについて考える暇を与えない。

 

これらの訳のわからない疑問から解放してくれるというだけでも、忙しい状況というのは幸せなのだと思う。