文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

世紀末について〜明日世界が終わるとしたら〜

〜明日は永遠に来ない。常に今日という日があるだけだ〜

 

今日は残業につぐ、残業であった。

本当であれば、平日にもジムに行きたいが、ここまで遅くなるとなかなか難しいだろう。

当然のごとく、勉強はしなかった。

朝活をするという手もあるが、朝に起きれたらにしよう。

 

 

今日のテーマは、「明日世界が終わるとしたら何をするか?」である。

 

年が明けてから、あまりロクなことがなかった。

こういう時は、へんに元気が出るようなテーマではなく、ずっしりと憂鬱とした気持ちに沈む方テーマの方が、かえって元気になりやすいというのが私見である。

 

さて、このテーマについて考えるとき、大半の人は好きなことをするであったり、大切な人と過ごすと答えると思う。

私は少し変わっているので、もう少し深く考えてしまう。

 

 

どうして「明日世界が終わるとわかったのか」について考える。

 

 

なんの前触れもなく、世界が突然終わるとしたら?

これについては当然に、普段通りの日常を送る。

そもそも、世界が終わる前日の時点で、明日世界が終わるとはわからないからである。

 

大昔、ノストラダムスの大予言というものが流行った。

細かいことはわからないが、有名な預言者が人類が滅亡する的なことを言ったと記憶している。

この程度の信憑性の低い情報であれば、私は間違いなく普段通りの日常を送る。

世界が終わる日に罪を犯してみたい、と考える人もいるようであるが、世界が終わった次の日も変わらない日常が続くのであれば、世界が終わったのはその人だけという皮肉な話になる。

 

さらに昔、アルマゲドンという映画があった。

ざっくり説明すると、地球に隕石が衝突するのを回避するというストーリーである。

シン・ゴジラも似たようなところがあるが、このような世界の終わり方であれば、大半の人が世界を終わらせないような努力をすると思う。

至る所で勇者が現れると思うが、大半の人は世界が終わらないでほしいと願うのではないかと考える。

もっとも、このようなシチュエーションであれば、諦めて大切な人と過ごす人が現れると思う。

または、少しでも助かる可能性がある場所へ避難する人もいるだろう。

ただし、注意すべき点は、自暴自棄になって、暴動を起こす人もいる可能性があることである。

そうなれば少なくとも、いつも通りに過ごすというような雰囲気にはならないと思う。

そう考えると、科学的に明日世界が終わることが説明できたとしても、そういった情報はリリースされない可能性がある。

色々考えたが、このようなケースにおいて、確信を持って「明日世界が終わるんだ」と自分が認められる可能性はないように感じる。

具体例を出すのは憚られるが、エボラやコロナの初期にはこのような雰囲気になったと思う。

その時には、できるだけ感染リスクの低い行動を取りつつも、通常どうりの日常を送った。

この時には、明日世界が終わる可能性がゼロではなかったと思うが、誰もそのことを受け入れなかっただろう。

 

 

では、どういった場合に「明日世界が終わると確信できるのか」についてである。

例えば、AIが発達して、人間に対して攻撃を仕掛けると宣言したとする。

その際人類は、世界の終わりを最大限長引かせるように交渉するだろう。

それでもAIが、明日世界を破滅させますと宣言した時に、我々はAIの宣言が本気だと心から信じるだろうか?

少なくとも、私は確信できないように思う。

明日世界が終わることを全員が受け入れる状況というのは、それだけ人類が敗色濃厚である上に、全人類が絶望していることが必要になってくるだろう。

そのような荒廃しきった状況では、最後の日に何をするかといった、希望めいたことを考えることはできるのだろうか?

 

以上より、現時点での「明日世界が終わるとしたら」の回答は、「由々しき事態であり到底受け入れられません」と回答する他にない。

 

 

話は逸れるが、世の中に地縛霊がいるかどうかはわからない。

しかしいると仮定して、「昨日世界が終わっていた。あなたは地縛霊です。」と言われた時に、受け入れられるだろうか?

この問いは、「明日世界が終わるとしたら?」という問いと近いかも知れないし、遠いかも知れない。

それを決めるのは、あなた次第である。