〜絶対に負けてはならない戦いはないが、絶対にしてはいけない失敗はある〜
今日は一日ゴロゴロしていた。
日記のこのフレーズを書こうとして、今日ジムに行っていないことに気がついた。
最近は、「空気」の研究という本を読んでいる。
さて、今日のテーマは「歴史」についてである。
以前軽く触れたが、私は高校時代に文系でありながら地理と倫理を選択した。
日本史も世界史も勉強していない。
高校生の時は、歴史の重要性がわからなかったからである。
このことは今でも同じであり、世界史や日本史が全くとは言わないが、役立つとは思っていない。
上記の考えに至った理由をいくつか述べるが、これらはあくまで私見であり、反対意見があるのは自然であると考える。
一つ目の理由は、海外旅行が嫌いなことである。
特に世界史を学習する一番のメリットは、外国の文化に触れることができることであると考える。
しかし、私には日本の文化がしっくりきており、よその文化に触れるメリットを感じないのである。
ちなみに、私は語学に関しても壊滅的であるという事実が、このことに拍車をかけているのだと思う。
二つ目の理由は、世界史や日本史の事実が不明瞭だからである。
我々が学習した聖徳太子が教科書から消えたと耳にしたことがある。
邪馬台国がどこにあったかについては、いまだに議論がなされていると聞く。
このように、歴史上の事実の認定には、難しいことが多く、新事実の発見によって書き換えられる点にもどかしさを感じる。
そういったところに、歴史のロマンを感じるか、もどかしさを感じるかは、世界史や日本史が好きかどうかということの分水嶺になるような気がする。
三つ目の理由は、名前が覚えられないからである。
どれが誰だったか、全く覚えられないのである。
王朝の名前も覚えられない。
当然、試験の成績も悪く、楽しさを感じられなかった。
その意味で、日本史や世界史が楽しいと感じられる人は羨ましい。
最後の理由は、世界史や日本史が、政治に関する歴史であるからである。
私の根本的な思想の一つに、「どの時代に生まれ変わっても、私は農民である」というものがある。
政策の良し悪しを議論する余地はなく、打ち出された政策に従うしかないのである。
小早川秀秋がどんな選択をしようが、私は必死に目の前の畑を耕すことしかできないのである。
そうなれば、どのような政治がなされ、世界がどうなったかということはどうでもいいのである。
この理由に付随してであるが、数学や科学、さらには文学もある意味では歴史であると考える。
大学時代に学習した、法律や会計も制度が創られた背景や判例を学ぶため、歴史であると考える。
これらの知識は、お金を稼ぐために必要であり、俄然重要性を感じる。
その意味で、世界史や日本史には興味がないが、専門分野の歴史は興味があるのである。
色々考えると、この世の全ての情報が歴史であるように感じてきた。