文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

「ノリ」の研究〜内輪のノリは存在しない〜

〜どれだけ高速道路が整備されても、下道は必要である〜

 

今日もハードな一日を過ごしてきた。

今週はなぜか疲れが大きい。

連休があると、リズムが崩れてしまうが、未だそのリズムを取り戻せていないのだろう。

朝活はできなかったが、明日は金曜日なので、今日以上に朝活を意識したい。

 

今日のテーマは「ノリ」の研究である。

 

近年、私の中で「ノリ」というものが見直されている。

私自身「ノリ」が良い方ではないので、「ノリ」が良い方には憧れる。

 

ところで、そもそも「ノリ」とはなんなのか?

「ノリ」とは、場の高揚した雰囲気やいきおい

とのことである。

 

重要なのは、「場」という言葉であろう。

 

バイトテロと言われるような行為は、「ノリ」が悪いのだろうか?

このような場合は「悪ノリ」が過ぎたというような言い方になると思う。

私は「ノリ」自体はむしろ良過ぎると思う。

では何が問題なのか?

それはSNSの発展によって、その「ノリ」が「場」を離れてしまうことであると考える。

いわゆる「ノリ」が良い行動を撮影して、SNSを通じて不特定多数の方に発信される時点で、その「ノリ」というのは不特定多数の目に触れても問題がない程度の「モラル」が必要になってくるのである。

SNSを視聴する、一人でも不愉快な思いをしたり、不謹慎だと思ったら、どれだけうちわの「ノリ」が良くても、問題のある行為になるのである。

 

少し前に、回転寿司の動画がSNSに上がり問題となった。

この動画内での行動も「ノリ」で行われたのだろう。

その意味で、彼はノリがいいのだと思う。

しかし、彼のとった行動自体は大きな問題であろう。

これもまた、その「ノリ」がその「場」を離れてしまったことが大きな理由であると考える。

そこにいる人だけでなく、SNSを介することで、全世界に対応するような「モラル」が求められるようになったのだろう。

 

少し話が変わるのだが、ある程度公の場所で、水道の蛇口をひねることがあると思う。

水道の蛇口をひねるのは、どんな時か?

それは、手などが汚れている時であろう。

では、手などの汚れを洗い流した後に、蛇口をきれいにするか?と言われれば、しない人がほとんどであろう。

しかし、我々はそのことに、そこまで問題意識を持たない。

これは、水道の蛇口の状態を確認する術がないからである。

いわば、「知らぬが仏」というものであろう。

回転寿司の問題は、SNSによって「知らぬが仏」というものが看過できなくなったということもあるような気がする。

 

「ノリ」については、もう一つ注意すべきことがあるような気がする。

主に「ノリ」の「いきおい」にフォーカスしたものであるが、物事の一面だけを見て、それに肩入れするようなコメントは避けるべきということである。

例えば、アフリカの食糧難の映像を見た後で、食事をたくさん残す人を見ると、批判的なコメントをしたくなると考える。

しかし、食事をたくさん残している人が、糖尿病や摂食障害を患っていると、批判的なコメントは差し控えるのではないかと思う。

ここで重要なことは、そのコメントが、いろんな立場の人に見られるということである。

例えば、ユーチューブの動画などでもいろんなコメントがあるが、「ノリ」で書かれたものが多いということである。

コメントもれっきとした社会への発信であり、気をつけなければならないのである。

 

いまいちまとまりがなくなってしまったが、このブログはどうなのだろうか?

もちろん、公開されているので、全ての人に対応できる程度の「モラル」が必要なのだろう。

そう考えると、自分だけが面白いと思えるような「ノリ」で文章を書くことは難しいのかもしれない。

SNSと「ノリ」というのは、水と油のように、相性が悪いものなのだろう。

 

考えれば考えるほど、「ノリ」が悪くなるどころが、行動を起こすこと自体難しく感じてきた。