文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

働くことについて

今日は30分くらいだけ、歩いてきた。

12月だというのに、外気温が22度もあった。

これからも、今日のような暖かい日が続けばいいのにと思った。

 

今日降りてきたテーマは「労働」についてであった。

我々は、なぜ働くのか。

私も含め、大多数の人にとっては、経済的自由を獲得していないからであろう。

つまり、ご飯を食べるために働くのだ。

実に夢のない話だ。

 

では、夢のある話をしよう。

例えば、私に資産が100億円程度あったとする。

そうなった時に、私は仕事を続けるのだろうか。

何も考えなければ、即座に仕事を辞めるという選択をするであろう。

お客様からの要求や、同僚間の競争といったプレッシャーから解放されたいからである。

 

しかし、世の中には、一生遊んで暮らせる程度の資産を持っているにも関わらず、働いている人もいる。

彼らは何のために働いているのだろう。

やりがいや社会的使命というものなのだろうか?

 

そもそも、仕事とは何なのだろう。

私の独断と偏見で言うと、仕事には「面倒臭いことを請け負うもの」と「誰かの幸福度を上げるもの」の2つに大別されるように思う。

前者の例としては、公務員が挙げられる。

社会的な事務作業など、好んでする人はいないだろう。

後者の例としては、スポーツ選手や芸能人が挙げられる。

なりたい人はいっぱいいるが、実際に仕事として成立できる人は、ごくわずかである。

 

ここで理解できないことは、後者の仕事をしている人であれば仕事にやりがいを感じると思うが、前者の仕事をしている人でも一定数、やりがいを感じている人がいることである。

かく言う私も、自分の仕事にやりがいを感じることがある。

常にと言うわけではないが、仕事が楽しくて仕方がない時もある。

 

では、どうすれば仕事にやりがいを持てるのか?仕事が楽しくなるのか?

 

ベタな答えではあるが、自分にできなかったことが、できるようになった時であろう。

つまりは、自分が成長できた時である。

しかし、これがなかなか難しい。

と言うのも、何回やっても成功する、単純作業において成長を感じるのは難しい。

成功と失敗を繰り返すような仕事でないと、成長を感じないのだ。

 

成長を感じるには失敗がつきものと考えることもできる。

しかし、失敗というものは本来辛いことのはずである。

 

まとめると、仕事をして辛い思いをし、その中で成長を感じたときに、やりがいを感じ、仕事を続けられるのである。

 

私が仮に100億円を持っていたとして、仕事を辞めると上記のような体験はできないであろう。

つまり、仕事を辞めると、成長を感じることができないのだ。

 

きっと、長い人生において、成長を感じられないことは辛いに違いない。

そう思って、仕事を続けるしかないという、結局夢のないお話である。