文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

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情報化社会について〜情報の忘れ方〜

今日は天気が悪かったので、散歩には行かなかった。

その代わり、図書館で1時間ほど勉強してきた。

もはや、散歩をしながら哲学をするという、このブログの趣旨から逸脱しているが、細かいことは気にしない。

 

今日のテーマは「情報化社会」であった。

 

かつて、情報共有の手段は新聞であった(それ以前は伝聞等であろう)。

それが、テレビにその一部を奪われた。

今は、SNSにその大部分を奪われた。

今では誰もがパパラッチであり、コメンテーターでもある。

 

自分が欲しい情報を、自ら積極的に探しに行けることで、趣味も多様化した。

核家族化をはじめとする、家族像の変化も相まって、テレビを見て一家団欒という光景も減った。

入れ替わりの激しい時代の中で、家族が共通して知っている有名人というものは、どれほどいるのか?

また、時の人はどれも旬が早く、今後、世代を代表するような、絶対的なアイドルは現れるのだろうか?

 

副産物として、新しい日本語も次々に生まれた。

新しい日本語のことを、「日本語の乱れ」と表現していた時期もあったが、意味を伝えることこそが言語であり、何もないところに新しい文化が生まれれば、それに対応すべく新しい日本語が生まれるのは当然である。

その結果として「日本語の乱れ」という言葉も淘汰されていったように感じる。

 

情報化社会の副産物として、専門化が進んだことも挙げられる。

一流の専門家の意見を、誰でも、どこでも、手軽に入手することが可能になった。

このことは、専門家同士の間でもシナジー効果を生み、加速度的に専門性が向上しているように思う。

 

リモートという言葉が台頭してきたが、これは情報化社会ではなく、コロナによってもたらされたという点が実に面白い。

おそらく、数十年後に『リモートは情報技術の発達によって広まった』という選択肢が、誤ったものとして試験に出されるだろう。

 

さらに、AIの登場も情報化社会の大きなイベントであろう。

AIが社会をどのように掻き乱してくれるかはわからないが、その立ち振る舞いは、今後の大きな注目点であろう。

 

私は、今の社会を肯定も否定もしない。

大きなうねりの中にいるのかどうかもわからない。

過去に生きた人は、誰でも、自分の生きた時代は激動だったと思うのだろう。

それもそのはず、今を生きている人は、常に時間の矢面に立たされているのだから。

 

 

最後に、情報化社会といえば、目の前の空間を、ありとあらゆる情報が電波としてただよっているものを思い浮かべると思う。

 

一方で、別の視点から見ると、情報化社会とは、あらゆる出来事が、情報というテンプレートで保存されているともいえる。

わかりやすくいうと、あらゆる出来事が、劣化しない状態で保存され続けるということである。

これまでのことは忘れてくださいと言っても、ネットのどこかに残っているのである。

 

その証拠に、2011年にフランスで「忘れられる権利」が認められた。

 

忘れるという、人間にとってごく当たり前なことも、情報化社会の中では、一つの技術なのかもしれない。

物忘れの多い私のような人間には、羨ましい話である。

 

一昔前までは、ネットに情報を流すことは、極めて危険なものであったが、今後は法整備によりもっと身近なものになるかもしれない。

 

しかし、昨今の法改正を見ていると規制が強化されるだけのような気もするので、今のうちに思ったことを書いておこう。