文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

遅刻について〜なぜ遅刻は悪なのか〜

〜何かをなさなければならないというのは、幻想である〜

 

 

やっと仕事が終わった。

風呂に入ると一瞬で寝てしまいそうなので、先にブログをつけようと思う。

ジムには行けなかった。

しかも、昼に中華料理を食べてしまったので、太ったように思う。

 

私の住む田舎ではそこまで雪が降っていないが、都心部では少し積もるようなので、お気をつけください。

 

 

今日のテーマは「遅刻」である。

 

 

このテーマにした深い理由はない。

 

最近、仕事の合間に考え事をしたりするのだが、その内容をテーマにしても、思ったように筆が進まない。

そのため、最近は日記を書くために机に座って、最初に思い浮かんだ単語をテーマにしている。

そのほうが、話がまとまるような気がするが、たまたまなのかもしれない。

 

私は遅刻をしたことがほとんどない。

とはいえ、一度だけある。

東京に住んでいるときに、山梨の富士急行の駅での待ち合わせに遅れた。

東京の最寄りの電車で一本乗り遅れたが、結果的に目的地には1時間以上遅れたと思う。

目的地の鉄道が、1時間に一本であると、注意が必要だ。

特に、遠くの交通網が発達していない地域に行くときには最新の注意を払っている。

 

 全く関係ないが、関西に住んでいるときには、JR和歌山線を目の前で乗り遅れて、1時間近く待ったこともある。

いい思い出だ。

 

 

本題に戻るが、遅刻はいけないことであろうか?

 

 

私は、よくないことだと思う。

私が遅刻したら、必ず前もって連絡するとともに、謝罪をし、遅れた理由を説明すると思う。

それでも許されなかったら、どうしようもない。

以前読んだ本の中に、「謝らせてもらえない相手が、1番怒っている」という旨の記載があったが、その通りだと思う。

いずれにしても、明らかに信用が落ちると考える。

 

逆に私が遅刻をされたら、遅れた理由を必ず確認する。

もちろん軽くであるが。

寝坊したのなら、よく遅刻するのかを確認する。

個人的には、なんとなくというのが、もっとも許せない。

 

念のため言っておくが、私もいつ遅刻するかわからない。

アクシデント的な遅刻はどうしてもあると思う。

全ての遅刻を受け入れられないというのは、それはそれで問題だろうと思う。

 

ビジネスにおいて、遅刻は論外であろう。

特に、相手が忙しい方であったり、立場が高い人であれば、遅刻は命取りである。

その時点で仕事が終了する。

下手すると、かなりの損失が発生する。

 

プライベートにおいては、あくまで主観であるが、最近緩くなっているような気がする。

理由としては、遅刻された側に、動画サイトやアプリなど、時間を潰す手段が増えたことがあると思う。

 

また、かなり古くなるが、昔は遅刻すると、待ち合わせで会うことができなかったのではないかと思う。

携帯電話がない頃の話であるが、そもそも連絡手段がなかったのだから、当たり前であろう。

昔のドラマでは、なん時間も待っていたというストーリーもある。

 

このことは、案外「遅刻文化」の根源なのではないかと思う。

昔は遅刻をするというリスクがかなり大きかった。

そのことをリアルに体験している人が、今では権力を持ち、遅刻を許さないのではないかと思う。

 

いずれ、そういった経験をしていない人が権力を持ったときには、遅刻が許されるのかもしれない。

 

また、新幹線や飛行機などの交通手段であれば、1分の遅刻で搭乗できないことがる。

日本の正確な交通機関が、遅刻を許さない文化を醸造しているのかもしれない。

あるいは逆説で、日本人の客が交通機関の遅刻を許さないから、交通機関の正確性が生まれたのかもしれない。

 

そう考えると、電車が遅れることを許容できるようになって初めて、遅刻が認められるのかもしれない。

 

 

念を押しておくが、私は遅刻をするのも、されるのも、大嫌いである。

根っからの日本人である。