〜バランスをとるとは、真ん中に集めることではなく、左右均等にばらけさせることである〜
今日はかなり仕事を頑張ったと自負している。
ウォーキングにもジムにも行かなかったが、まあよしとしよう。
朝ジムに行けない日は、申し訳程度に、腕立て、プランク、スクワットをしている。
しかし、明日は思い切って朝ジムに行こうと思う。
晴れていればウォーキングに行きたいが、雨っぽいか。
今日のテーマは「食事」についてである。
このテーマにした理由は、昨日の日記でも書いたが、最近食事を楽しめていないからである。
そもそも食事とは楽しいものなのか?
早速AIに聞いてみた。
「食事は楽しいの?」
「食事は、多くの人々にとって楽しい経験です。食事は、料理や食材の多様性、食文化、そして食事を共にする人々との交流など、さまざまな要素が組み合わさって楽しい時間になることがあります。また、美味しい料理や新しい味を試すことも、多くの人にとって喜びの源です。しかし、食事が楽しいかどうかは個人の好みや文化にもよります。」
とのことである。
過去で一番深い回答だと思う。
どうすればこんな回答ができるのだろう。
おそらくAIは食事をしたことがないだろうに。
昔、「ネットは誤った情報がたくさんあるから気をつけましょう」と学校の先生に言われたものである。
しかし、いずれは「先生の言っていることが正しいとは限らないので、AIに聞いてみましょう」と学校の先生が言うかもしれない。
さて、哲学パートである。
私が、食事は本当に楽しいのか?と思ったきっかけは、将棋である。
将棋の対局では、昼食や夕食を取るための休憩時間がある。
そして、特に夕食は切羽詰まった勝負の場面ということが多い。
解説の方がよく言う発言がある。
「これは、夕食の味はしないでしょうね」
では、なぜ夕食を食べるのか。
夕食後の英気を養うためである。戦うための体力をつけるためである。
これは、極めて義務的なものだとの印象を受ける。
しかも、将棋のタイトル戦は全国の旅館やホテルなどを転々とする。
最上級のご当地メニューを、味がない状態で食べるのである。
食事には副作用がある。
睡魔である。
将棋の例でも、眠くなってしまうと、ミスが起きる。
私自身も昼過ぎの仕事はしんどいし、ミスも多いのだろう。
食べたものを消化すると言うのは、大きな負担がかかるのだろう。
少し話は逸れるが、昔、武井壮さんが、足を早くするために馬の肉を食べていたといっていた。
私も色々調べたが、「消化」とは、「そのものが持っていた元々のDNAを破壊する行為」だという考え方もあるようだ。
面白い考えだと思った。
当たり前であるが、馬の肉を食べたからといって、馬にならない。
言われてみれば当たり前のことであるが、「なぜ馬にならないのか?」を、もっと自分で考えるべきだったと後悔している。自力で思いつけたのではないかと、悔やむのである。
その意味で、この問題は私の中で消化できていない。
食事が楽しくない理由の一つに、偏食があるだろう。
ちなみに私は魚介類が食べれない。(全く関係ないが、「ら」抜き言葉は市民権を獲得していると考えている)
最近ではアレルギーも増えているため、より食べるものに気を使うかもしれない。
ちなみに私の場合、和食系の居酒屋での飲み会の場合、ほとんどのものが食べれない。
どれだけ頑張っても、みんなのテンションが少し下がる。
楽しくはない。
またまた話は逸れるが、よく「好き嫌い」という。(話がよく逸れる日は調子がいい。)
私は嫌いな食べ物は多い。
しかし、好きな食べ物は少ない。
よって「好き嫌い」とまとめると、私は普通である。
以前、不老不死の話でも述べたが、好きと嫌いも別物のような気がする。
少し触れたが、「飲み会」も広義的には食事に含まれるのだろう。
私は偏食問題を回避できれば、飲み会が好きである。
しかし、飲み会が嫌いな人にとっては、お金と時間と体力(精神)を失うとんでもないイベントなのだろう。
ちなみに、私は地方に住んでいる。
車社会のもっとも大きな弊害は、気軽に飲み会に行けないことだろう。
お酒を飲むと、車で帰れない。
飲み会が終わるころには、バスはない。駅前にタクシーもいない。
そもそも、車を駅に置いてしまうと、翌日の交通手段がない。
よって、飲み会には参加しにくい。
無念でござる。
そして今、私は食事制限をしている。
これがもっとも大きな問題であろう。
今の私にとって、あらゆる食べ物は、罪悪感の塊である。
少し話が逸れるが、以下の記事は、私の罪悪感の思想を詰め込んでいるので読んでいただきたい(ぜひお願いします)。↓
たまに免罪符をつけられた食べ物があるが、極めて少ない。
これは、ダイエットをしている人ならわかるのではないか?
では、なぜダイエットが必要なのか?
もう一歩踏み込むと、昔の人はダイエットをしていたのか?
詳しいことはわからないが、今までの歴史は飢餓との戦いだったという先入観がある。
(先入観というからには、検討が必要だが、ここでは正しいという前提で進める)
これだけ飽食になったのは、つい最近と言ってもいいだろう。
昔は「食べたいのに食べるものがない」であったが、今では「食べてはいけないのに食べてしまった」ことが主たる問題になる。
食べるものがないのであれば、我慢するしかない。
しかし、目の前に食べるものがあるにも関わらず、食べてはいけないというのは、大きなストレスとなる。
Youtubeで、アメリカ人の肥満についてのドキュメント動画がある。
その動画の中で、安い食べ物ほど太りやすいという話があった。
所得が低い人ほど糖尿病のリスクがあり、健康への投資は高価なものであるという内容であった。
ハッとさせられる話であった。
確かに、体から糖分がなくなれば、頭が働かなくなるし、頭が痛くなる。
考え方によっては、我々は砂糖に支配されているとなるのかもしれない。
考えすぎかもしれない。
色々考えたが、食事を楽しむ方法は見つからなかった。
「どうすれば食事を楽しめるの?」
「食事を楽しむためにはいくつかの方法があります!まず第一に、食事を準備するのが楽しい方法を見つけることが重要です。料理を試してみたり、新しいレシピを学んだりすることで、食事がより楽しくなります。また、食事を食べる場所や雰囲気を整えることも大切です。家族や友人と一緒に食事を楽しむことや、美しい食器やテーブルセッティングを使うことも良い方法です。さらに、食事をゆっくり楽しむことを心がけて、食べ物の味や香りを楽しんだり、会話を楽しんだりすることも大切です。」
何ひとつ実践できていないし、しようとさえ思えない。
なんでも気軽に食べることができるという状況が、食べることの喜びを奪ったのかもしれない。
少しでも手間をかけることが大事なのだろう。
しかし、時は、タイムパフォーマンス時代である。
そうはいっても、食事なんかに時間を割けないと考える人の方が多いのではなかろうか?
狩もせず、農業もせず、調理もしないが食べ物は溢れている。
興味深い時代である。
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