〜こだわりを持つのは大事である。しかし、こだわりがあると言われるのは悪口である〜
今日も元気に朝ジムに行ってきた。
昼過ぎに猛烈な眠気に襲われたが、金曜日だったので耐えた。
例のごとく、仕事を少し残して帰ってきた。
今日のテーマは「パーセント」についてである。
このテーマにした理由は、仕事に集中しかけたときのことである。
「勇気100%」という曲の100%という部分が必要かどうかか、猛烈に気になった。
その後の仕事が手につかなかったのは、いうまでもない。
「仕事30%」である。
目次
パーセントについて
パーセントとはなにか?
「パーセントとは、1の100分の1を表す単位です。中略。パーセントは、比率や割合を表す際に使用されます。後略。」
とのことである。
分母に100を置くだけで、かなり数学的な要素が強まると思う。
%とつけるだけで、アナフィラキシーショックを起こす文系は多いだろう。
私もその一人である。
そんな私でも、近づきやすいように、「パーセント理論」と命名し、手懐けることにした。
これは、「難しい話を自分の言葉で縛ることによって、手の中に入れた気分にする。」という、私がよく使う手法である。
現実逃避の一つである。
「パーセント理論」について
「パーセント理論」には2通りの考え方がある。
「みんなのパーセント理論」と「ひとりぼっちのパーセント理論」である。
前者(みんなのパーセント理論)は簡単である。
分母が複数ということになる。
簡単にいえば、100人いるうちの何人が該当するか?ということになる。
これは、人間だけでなく、可能性があるものであれば、成立するのだろう。
100回行ったうちの何回か?でももちろんいい。
数学の確率の問題が、典型的なものであろう。
少し話は逸れるが、私は数学の中でも、確率だけは得意であった。
これは、特に公式を覚えなくてもいいことに加え、最悪の場合、樹形図を描ききればなんとかなるという精神に基づいていた。
論理は飛躍して、数学の確率が得意だという人は、数学が苦手なのではないか?という先入観につながっている。
問題は後者(ひとりぼっちのパーセント理論)である。
抽象的な話になるが、パーセントには基準があり、時間が流れている。
どこかの地点を100としているのである。
おそらく、過去のどこかであると思うが、未来であるケースもあるのかもしれない。
前者の例は、投資がわかりやすい。
投下資本や前日の株価を基準とした、比率が用いられる。
後者の例は、達成率がわかりやすい。
ノルマの達成率という、ビジネスマンであれば誰もが嫌う言葉がこれである。
勇気100%の100%とは?
では、本題に戻って、勇気100%の100%とはなんなのか?
念のため示しておくと、100%とは100/100となろう。
そして、おそらく、この数値は勇気の度合いのようなものを示しているのだろう。
では、分母と分子はなんなのか?
一つの仮説としては、今の自分を100として、未来の自分も100とする考えである。
これは、今の力を維持するということになるのだろう。
しかし、あえて歌にするのであれば、未来の自分は今よりも大きくするのが自然なように思う。
私であれば、勇気120%にしただろう。
だから否定できるとまではいえないが、この考えは正しくないように思う。
ただし、歌詞に「ぼくたちが持てる輝き 永遠に忘れないでね」という部分がある。
「忘れないでね」という表現を汲み取ると、120%ではなく100%となるだろう。
心に染みる。
もう一つの仮説として、自分の限界を100としたときに、100の勇気を絞り出すというものである。
ようは全力を出すというものを、数値化したということだろう。
勇気という極めて文系的な考えと、100%という理系的な表現のフュージョンである。
忍術学園では、社会科学も自然科学も扱うという良い宣伝になるだろう。
話は逸れるが、忍術学園は近畿地方の山奥にあるらしい。
伊賀流のコンセプトであればいいが、私は真っ先に日生学園を思い浮かべた。
「120パーセント理論」について
似たような考えに「120パーセント理論」というものがある(私の中に)。
これは非常に厄介なものである。
過去の自分を100として、未来の自分を120にするというものであれば問題はない。
成長するということである。
しかし、今の自分を100として、今120の力を出すという考え方がある。
これが狭義的な意味での「120パーセント理論」である。
これは難しい。
今の時点で力が出せるのであれば、それは120ではなく、100である。
100を120にしたのではなく、83.333・・・を100にしただけである。
しかし、実力以上のものを出すという意味を120%ということはある。
不思議なことに、130でも140でもなく120%である。
これは、文系的な表現と理系的な表現のフュージョンとは言い難いとの印象を受ける。
ともすれば、お互いの分野への冒涜のようにも思える。
勇気120%という曲名であれば、私の中の「120パーセント理論警察」が作動していたかもしれない。
ちなみに、私は「120パーセント理論」が嫌いである。
それは、会計学を学んだ後遺症であろう。
例えば、今の会社が100であるとする。
それを120というのは「粉飾」であり、80というのは「逆粉飾」である。
会社を良く見せたい、または、税金を小さくしたいという魂胆が見え隠れしてしまう。
そんな私のことを思って、勇気120%としなかったのかもしれない。
多分違うと思うが。
ちなみに、鬼滅の刃に「全集中の呼吸」というものがある。
「集中100%」というと、チープな表現になるだろう。
なんでもかんでも、文系と理系をフュージョンすればいいという訳ではなさそうだ。
このことは、肝に銘じておこう。
等身大理論について
私は、100%と言われれば、「等身大」という言葉を思い浮かべる。
等身大・・・。
今の自分は等身大で勝負できているのだろうか?
変にいろんな服や言葉で着飾って、自分を大きく見せてしまっているのではないか?
または、勝負に負けすぎて、自分を小さく見せすぎているのではないか?
何もわからなくなってきた。
ただ、なんでもかんでも、「理論」とつければいいわけではないだろう。
この理論でいくと、「等身大の勇気」というタイトルになるが、おそらく売れない。
最後に
結局、「100%」という部分が必要かどうかはわからなかった。
そもそも、「勇気」という部分も正しいのかわからなくなってきた。
今日1番の疑問は、「降水確率50%」に意味があるかということだ。
本日も読んでいただきありがとうございます。