文系が相対性理論を自力で思いつくためのブログ

ど文系の私が何気ない日常をヒントに、相対性理論を自力で思いつく話

本日は投稿を中止します

今日は急遽、投稿を中止します。

 

本日の14時過ぎに、謎の集金がありました。

蓋を開けると、送別会でした。

そりゃ、送別会ありますよね。

僕、今初めてお聞きしたんですけど。と思ったが、言わなかった。

言うのが正しかったのだろうか?

 

明日は、日記を投稿すます。

 

明日の日記の前に、この二つの日記を読んでいただけると嬉しいです。

 

1つ目です。

barbar.hatenablog.jp

 

 

2つ目です。

この日記に関しては、「最後に」のみ読んでいただけると嬉しいです。

 

barbar.hatenablog.jp

 

嘘について〜嘘をつかないとはどういうことか〜

〜天使と悪魔の違いは、自分自身の立場である〜

 

目次

 

今日はなんともない一日だった。

こういう日がいちばん幸せである。

明日も何にもなければいいと、願っている。

 

 

 

今日のテーマは「嘘」についてである。

 

 

 

このテーマにした理由は、本当は今日、色々あったからである。

生きていれば、色々あるよ。

 

 

嘘とは

最近、嘘がなんなのか、わからなくなってきた。

 

「嘘とは?」

「嘘とは、事実と異なる情報や声明を意図的に伝えることです。つまり、真実を隠したり、誤解を招くような虚偽の情報を伝える行為を指します。」

 

「嘘はいけないことなの?」

「はい、一般的には嘘は倫理的に誤った行為と考えられています。嘘は信頼関係を損なったり、他人を欺いたりすることがあり、社会的な信用や倫理観に反する行為とみなされることがあります。」

 

最近、嘘ばかりついているような気がする。

 

 

嘘と物語

物語を作ることは、嘘をつくことなのか?

 

話をわかりやすくする。

 

例えば、刑事物の物語があるとする。

しかし、おそらく警察組織というのは、物語のようなエンタメ性はない。

 

警察組織をショーにするためには、意図的にエンタメ性を含めた情報を伝える必要があろう。

 

そうなると、これはAIさんの提示した、「嘘」に該当するのではなかろうか?

 

では物語を作ることは嘘になるのだろうか?

 

作家の資質とは、嘘を華麗につくことなのだろうか?

 

 

「嘘」と「善意」

「嘘」と「善意」と言われると、「優しい嘘」という印象を受ける方もいるだろう。

 

しかし、法律を齧(かじ)ったことがある身としては、「善意」と言われれば、「知らない」ということになる。

 

AIさんの定義には、事実と異なる情報や声明「意図的に」伝えることが「嘘」だそうだ。

 

となると、「知らなかった」ことが理由で「事実と異なる情報や声明」を伝えたとしても、「嘘」にはならない。

 

日常生活で、「知らなかった」と言われたとき、「嘘ではない」ということを伝えたいのだろう。

 

問題は、「嘘ではない」と言われたときに、「なぜ知らなかったの?」と追求されることである。

 

こうなれば、「嘘」に該当するかどうか?というのは、そこまで重要ではない。

 

専門的になればなるほど、「知らなかった」ことと「嘘」の差は小さくなるだろう。

 

 

「嘘」と「悪魔」

「悪魔とは?」

「悪魔とは、多くの宗教や信仰体系において、悪意や邪悪な力を象徴する存在です。一般的には悪魔は悪意を持ち、人々を誘惑したり、害を与えたりするとされています。悪魔はしばしば地獄や闇の支配者として描かれ、様々な形や名前でさまざまな宗教や神話に登場します。」

 

とのことである。

 

いちばん伝えたいのは、「悪意」を持っているということである。

 

法律を齧(かじ)ったことがある身としては、「悪意」と言われれば、「知っている」ということになる。

 

「悪魔」は何を知っているのだろうか?

 

ちなみに、AIさんの悪魔の定義には、悪魔が嘘をつくかどうかは触れられていない。

 

例えば、

Aさんと、Bさんと、あなたがいるとする。

Aさんは、Bさんのことが極めて嫌いである。

そして、Aさんはあなたに、Bさんが嫌いであることを明言している。

そこで、Bさんがあなたに、「Aさんに嫌われているのではないかと不安である。Aさんは私(Bさん)のことを何か言っていた?」と深刻そうな顔で、聞かれたとする。

あなたはなんと答えるだろうか?

 

「Aさんはあなた(Bさん)のことを、嫌いと言っていたよ」と答えるのか?

「Aさんはあなた(Bさん)のことを、嫌いと言っていないよ」と答えるのか?

 

前者は、正直である。

後者は、嘘である。

 

しかし、どちらが「悪魔」かと言われれば、前者であろう。

 

以前少し述べたが、「悪魔」はどんなに酷い状況であっても、「契約」は履行する。

 

換言すれば、「悪魔」は嘘をつかない。

 

 

「嘘」と「沈黙」

先ほどの例で、

「Aさんからは何も聞いていない」

であったり、

「そんなに気にしない方がいいんじゃない?」

と言ったりすることは、「嘘」なのか?

 

法律を齧(かじ)っていた身としては、これらの回答は「不作為」に近づく。

 

「不作為は嘘になるの?」

「不作為は直接的な嘘ではありませんが、場合によっては同様の結果をもたらすことがあります。例えば、情報を隠したり、行動を取らないことで他人を欺くことがあります。そのため、不作為も信頼関係を損なったり、誤解を招いたりする場合があり、倫理的な観点からも問題が生じることがあります。」

 

とのことである。

「嘘」ではないが、「場合によっては同様の結果をもたらす」そうだ。

 

 

沈黙の「悪魔」

ふと思ったのだが、「悪魔」は沈黙するのだろうか?

 

勝手なイメージだが、沈黙することはありそうだ。

 

ではどんな時か?

 

1つ目は、なんとも答えられない質問をされた時であろう。

 

2つ目は、自分の利益に直結する時であろう。

 

3つ目は、人間の心に良寄り添う時であろう。

 

大事なのは、人間も同じ状況で「沈黙」することだろう。

 

特に、3つ目は、「悪魔」が「人間味」を持つから、「沈黙」するのだろう。

 

純粋な「悪魔」であれば、1つ目の時と、2つ目の時しか「沈黙」しない。

 

 

「嘘」と「裁判官」と「閻魔様」

私は、よく嘘をつく。

 

自分にも嘘をつくし、他人に対しても嘘をつく。

 

できれば嘘なんてつきたくない。

 

閻魔様にベロを切られるからだ。

 

ところで、閻魔様は

「冥界や死後の世界の支配者や審判者とされる存在」

だそうだ。

 

多分、閻魔様は嘘をつかないし、沈黙も使わないのだろう。

 

では、なぜあんなに怖い見てくれをしているのか?

 

多分、子供に「良い行為」をしないとダメだよ、ということを伝えるためだろう。

 

しかし、「嘘」をつかなかったら、あんな見てくれになってしまうぞ!と、考えてみるのも、面白いかもしれない。

 

ちなみに、裁判官も「嘘」と「沈黙」はないだろう。

 

そして、やっていることは、閻魔様と似ている。

 

正義をまっとうした裁判官が、仏のような顔になるのか、閻魔様のような顔になるのかは、興味深い。

 

 

最後に

社会で生きていると、正直になっても、嘘をついても、どちらも地獄という時があるだろう。

 

その場合、嘘に関わらず、この世界が地獄ということになろう。

 

嘘をつかないというのは、嘘をついたときにのしかかる罪悪感以上にしんどいこともあるだろう。

 

よく嘘をつく私は、よく「優しい」と言われる。

 

AIがさらに発展すると、もっとも必要な能力は「嘘」や「沈黙」といったスキルになるのかもしれない。

 

 

本日も読んでいただきありがとうございました。

「クリック」をしていただけると、喜びます。嘘ではないです。

 

文章について〜毎日1,000字以上の日記を3ヶ月書いて気づいたこと〜

〜もっとも簡単な現実逃避は、初心に帰ることである〜

 

目次

 

今日は日記を書く前に、ゴルフに行ってきた。

スランプ大統領である。

スライスもチーピンも出まくる。

ただ、ドライバーのキャリーは出ていた。

多分、ゴルフをしない人にとっては、なにもわからないと思う(ごめんなさい)

 

 

 

今日のテーマは「毎日1,000文字以上の日記を3ヶ月継続して、気づいたこと」である。

 

 

このテーマにした理由は、なんとなくである。

いつも、なんとなくである。

 

そういえば、まもなく100記事達成である。

なかには、投稿キャンセルの記事も含まれているため、どの記事で100記事になるのかは微妙なところである。

 

 

観察について

このブログの目的は、世界を深く観察することである。

相対性理論なんてどうでもいい。

(*昨日も記載したが、やはり相対性理論関係の日記は、誰も読まない涙)

 

ブログをつけ始めた頃は、随分と前に、紙の日記に書いていた事柄などを膨らまして書いていた。

最初の20記事くらいはそうであろう。

 

その後は、適当に思いついた「テーマ」を深掘りしていった。

浅いかもしれないが。

 

日常生活の中で、不思議なことがあると、メモを取るようになった。

そして、そのメモが使えそうであれば、日記のなかに組み込んだ。

 

なんとも形容し難いのだが、ブログをつけるようになって、観察力は随分と上がったように思う。

 

 

本を読むことと、本を書くこと

『いい文章を書きたいならば、いい文章を読まなければならない』

というようなフレーズがあるかもしれないし、ないかもしれない。

 

しかし、ブログを3ヶ月間継続して思ったことは、文章を読み解くスキルと、文章を書くスキルは別物だということである。

 

よって、正しくは、

『いい文章を書きたいのであれば、いい文章を書かなければならない』

となろう。

 

 

文章を書くのが先か、読むのが先か?

早速、前の事項と矛盾するのだが、引用は大切である。

 

多分わたしの文章は引用がファジーである。

伸び代しかないわ🎶

 

いい引用をするには、それだけのストックが必要である。

 

結果、いい文章を読まなければならない。

 

なんやねん!と思われるかもしれない。

 

しかし、文章を書くことで、文章の読み方は変わる。

 

どの言葉が、今の自分に大事だろう?

という読み方が、

 

この言葉は、自分で考察してみたいぞ!

この言葉は、矛盾しているのではないか?

この言葉は、別の筆者の意見と無逆だぞ。どちらが正しいんだ?

この言葉は、今日の「テーマ」の軸にしよう!

となる。

 

読み方に、具体性が出る。

読み方の筋がピシッと通る。

 

結果、本を読むのがものすごく遅くなった。

 

 

文書術に関するおすすめの本

わたしは、このブログを書き始めるまでは、ある程度まとまった分量の文章を書くことは、多くなかった。

 

しかし、何十冊もの文章術の本を読んできた。

 

個人的に、もっともおすすめなのは、

 

『取材・執筆・推敲ー書く人の教科書(古賀史健著)』

 

である。

 

ぜひ読んでもらいたい。

この本を読んだときに、推敲の重要性を噛み締めた。

しかし、このブログはほとんど推敲していない。

 

 

構成のジレンマ

個人的に、文章を書くようになって、1番強く感じたのは、「構成」の難しさだ。

 

観察力については、前述した。

そこら辺を見渡せば、一つくらいはテーマが見つかるようにはなった。

 

しかし、そこで見つけた「気づき」を、その日のブログの「もっとも言いたいこと(以下オチ)」にするのは、とても難しい。

 

当たり前であるが、その「オチ」にたどり着くための、前振りのようなものが必要となる。

 

 

例えば、

今、わたしの机の上に、「国語辞典」と「英語辞典」がある。

「英語辞典」の方が少し分厚い。

これは、英語の方が、言語としての情報が多いということではないのか?

となったとする。

 

その「気づき」を軸に、構成を組み立てるが、途中で、

「そもそも、英語辞典には、英単語と日本語説明の両方が書かれているから、そりゃ英語辞典の方が分厚いよな」

となったとする。

そこで、試合終了である。

諦めなくても、試合終了である。

こういうことはよくある。

 

この例は、「オチ」と「前振り」の説明ではないような気もする。

しかし、このように、自分の意図しない方向に話が進むことがよくある。

 

よくいえば、「気づき」を一本のブログの中に入れることで、その周辺の「気づき」との違いやグラデーション(またはコントラスト)がわかる。

 

しかし、自分がいちばんメインの「気づき」だ!と思っていたことでも、並べてみるとそうでもないことがよくある。

 

すると、頭の中で組み立てていた構成がグニュと曲がる。

 

昨今、『構成はしっかりしておいた方がいい』勢と、『構成はフレキシブルであるべきだ』勢が、わたしの頭の中でディベっている。

 

 

言葉の限界

よく、

「言葉は、思考を制限する」

という旨の言葉が散見されるかもしれないし、されないかもしれない。

 

確かに、頭で考えていることを、そのまま言葉にしようとすると、とても難しい。

 

前述した、「構成」の容易な破綻がその証左かもしれない。

 

しかし、頭の中ではもっといい物語だった!と作者に言われても、なんともできないだろう。

 

どれだけ大きな絵を頭の中で描いたとしても、言葉にできなければ、「絵に描いた大きな絵」にしかならない。

 

強い表現を使うと、

意思疎通の手段はとても限られている。

よって、そこをパスできないものは、ないのと同じだ!

と言えるかもしれない。

 

例えば、

『わたしは相対性理論をすでに思いついている。ただ、表現できないだけである!』

と言われて、信じる人はいるだろうか?

多分いないはずである。

それを言って信じてもらえるのは、フェルマーラマヌジャンくらいだろう。

(*もっとも、前述の通り、相対性理論関連のわたしのブログはそもそも読まれない)

 

 

言葉の歩き方

最近よく思うのだが、文章を書いているうちに、あれもこれもと思いつく。

 

「構成」を重視しなくなってから、日記がのびのびと歩き回るようになった。

 

これを「筆が走る」というのだろうか?

 

それとも「手なり」というのだろうか?

 

イデアが次々に湧いてくる。

 

面白いのは、そのアイデアが、『「イメージ」ではなく「言葉」として浮かんでくる』ことである。

 

 

言葉の箱根駅伝

わたしは走るのが嫌いである。

 

一時期書いていたが、ジムのトレッドミルで走っていた。

距離は大体400〜800メートル程度である。

今も、ささやかながら走っている。

 

1,000文字以上の日記を毎日書こう!と決めた当初は、体感的には2,000メートル程度走っているようなものだった。

 

徐々に慣れた。

 

今でも、一日1,000字以上のルールは変わらないが、今日のブログなんかでも3,000文字をゆうに超えている。

 

体感的には30メートル程度走っているようなものである。

 

長い文章を書けるというのは、一つのメルクマールになるだろう。

 

しかし、ダラダラと書かれた長い文章よりも、中身がギュッと詰まった短い文章の方がいいに決まっている。

 

「長い文章が正義(ジャスティス)」という時代は終わった。

 

誰にも知られず、私の中だけで、パラダイムシフトが起こった。

 

 

オチ

では、今日の日記を通して、何が言いたかったのか?

 

「これだけ、文章に対して能書きを垂れているのだから、さぞかし面白い「オチ」が待っているのだろう。」

 

「今まで、つらつらと書かれた文章を黙って読んできた。全部前振りだったんだろ?で、「オチ」は?」

 

そんな声が聞こえる。

 

まあまあ落ち着いてください。

 

「オチ」は用意している。

 

 

今日、もっとも言いたかったこと、

 

 

それは、

 

 

 

『オチが思いつかなくても、文章は書ける』

 

 

本日も読んでいただき、どうもすみませんでした。

反省ついでに、「クリック」の方をお願いします。

光について〜光とお金の共通点〜

〜得意なことと、得意になりたいことは全く別物である〜

 

目次

 

今日は大荒れの天気だった。

ずっと風が唸っており、雨は今も降っている。

10年前にこんな天気はあったか?と思ってしまう。

しかし、多分あったのだろう。

覚えていないだけであろう。

自分の記憶を過信してはならない。

しかし、悲観的になりすぎてもいけない。

悲観的ってなんだ?

 

 

 

今日のテーマは「光」についてである。

 

 

 

このテーマにした理由は、10日に一回くらいは、相対性理論に関することを書かなければならないという、謎の使命感である。

いきなり「光」とは、随分と攻めたように思う。

正味なところ、「光」を制すれば、相対性理論は思いつけるだろう。

 

 

 

「光」とは

光については、AIに聞かないようにしようと思ったが、やはり聞こうと思う。

 

「光ってなに?」

「光は電磁波の一種であり、電気的なエネルギーを持っています。光は波動として振る舞うことがあり、また粒子として振る舞うこともあります。この二重性は光を理解する上で重要です。」

 

とのことである。

電磁波ってなに?波動ってなに?粒子ってなに?と、色々疑問がある。

しかし、あくまでこのブログの目的は、自力で相対性理論を思いつくことである。

よって、とりあえずは調べずに、自力で考えようと思う。

 

 

「光」の速度

1番最初に思うのは、光の速度である。

ものが爆発したのであれば、広がるのはわかる。

しかし、なぜ光はこんなに速いのかについては疑問である。

 

わたしは、野球のボールをそんなに速くは投げられないが、持っている野球のボールの光はとても速く投げれる。

多分、老若男女問わず、全員同じ速度なのだろうが。

 

わたしが1番疑問に思っているのは、『光は進むものなのか?』ということである。

 

 

「光」と「音」の違い

音は空気を振動させて、相手に届く。

 

わたしは喋る時に、相手に空気振動が届くように心がけている。

 

 

少し話は逸れるが、リモートは不思議なものである。

音が空気をふるわすものではなくなった。

マイクを震わせ、電気信号になり、遠くにある場所のスピーカーを震わせる。

 

仮に宇宙の端っこ同士で、ZOOM会議をしたときに、タイムラグがなければ、音は光よりも速くなったと考えられるのだろうか?

 

 

音と光の一番の違いは、媒介があるかどうかであろう。

 

音は空気を震わせる。

 

光はなにもなくても進むのか?

 

何か媒介があるのではないのか?

 

 

「光」と「触覚」との違い

音と光の違いはよく言われるだろう。

 

では、触覚と光の違いはなにであろうか?

 

触覚はどこで感じるのか?

もちろん、手や足などの器官であろう。

しかし、最終的には、大脳の感覚野ではないだろうか?

 

注目すべきはその流れである。

手に圧力が加わる。

その圧力が、そのまま脳に及ぶ。とはならない。

どこかで電気信号になるだろう。

ここで電気信号がなんなのかを調べる必要があるが、後日にする。(ごめんなさい)

 

個人的に気になるのが、跳躍伝導である。

ざっくり説明すると、とりつく島が少ないため、速く進むことができるといった形である。

 

光を触覚的に解釈する。

 

光には光を受け取って、隣のものにバトン渡しをする存在がある(指示待ち因子と名付ける)と仮定する。

(*適当にいえば、ダークマターあたりがその役目を背負っていてもいい)

(*注意点としては、真空中でも存在する必要がある)

(*以前軽く述べたが、我々は紫外線すら視認できない。目に見えないものがあっても不思議ではないだろう)

そのバトンパスの回数が少なければ、光速の限界に近づく。

バトンパスが多ければ、光の速度は落ちる。

ブラックホールなんかは、この指示待ち因子でごった返している。

光を隣の指示待ち因子に渡さないやつが出てくるかもしれない。

または、光を盗んでしまう不届な指示待ち因子も出てくるかもしれない。

 

ちなみに、粒子を受け取って、隣の指示待ち因子にバトンパスをするときにロスが生じ、それが波動になる。とでも仮定しておく。

 

太陽から出た光が、わたしに反射して、永遠にどこまでも進むわけではない。

 

わたしに反射した光が、指示待ち因子のバトンパスによって、行けるところまで行くということである。

 

指示待ち因子は、自分で受け取って、自分で出力する(抽象的でごめんなさい)。

 

つまり、光の粒がすーーっと通り抜けていくのではないという仮説である。

 

 

少し話は逸れる。

指示待ち因子は、来たものを次に渡すだけである。

彼自身に記憶力はない。

さっきと同じ作業をしてくれと言われたときに、再現できるかどうかは微妙である。

というよりも、光をバトンパスすることしかできないので、なんともいえない。

ただし、意味はない。

なにが言いたいか!

光をバトンパスする作業に不可逆性はなく、時間はない。

 

 

「光」と「お金」の違い

ん?どうしたどうした?となるだろう。

 

昔、養老孟司先生の「唯脳論」を読んだ。

 

1番記憶に残っているのは、構造と機能という話である。

 

脳という「構造」はある。記憶というのは「機能」である。

心臓や血管は「構造」である。循環というのが「機能」である。

「構造」は解剖できるが、「機能」は解剖しても見つからない。

 

 

音とは何か?

 

空気の振動ではない。

空気の振動の結果、発生する、「何か」であろう。

 

音の構造は「空気の振動」であり、機能が「音」と分けられるのではないか?

(流石に無理があるか?)

 

 

光とは何か?

 

機能は「光」であるが、構造は明らかになっていない。

これが、不思議なところであろう。

これだけ科学者が考えてもわからないのであれば、構造自体、目に見えないのかもしれない。

 

 

お金とは何か?

 

機能は「交換」である。構造はない。

厳密に言えば、昔は金だった。

そして金属と紙になった。

最近、構造がなくなった。

機能があるが、構造がないものの例として出してみた。

 

光とお金は同じではないだろうか?

 

Light is Moneyである。

 

話は逸れる。

例えば、宇宙の端っこと端っこで、取引をしたとする。

Aさんが、Bさんからジュースを買ったとする。

ジュースはいずれ届くだろう。

しかし、お金は瞬時にAさんの手から、Bさんの手に渡る。

 

お金が光より速いと言えるのだろうか?

 

 

「光」が屈折する理由

光が屈折する原理がわからない。

 

指示待ち因子の並びが変わる!というのは、なんの根拠もない。

 

ちなみに、水中では光の速度は落ちるらしい。

 

この原理もわからない。

 

指示待ち因子が、行列をなしている!というのは、なんの根拠もない。

 

もっとも、ここまでの過程は、全て根拠がない。

 

よって、論理は破綻した。

 

 

「眼」について

以前、眼について、なんとなく記載したので、時間がある方は読んでほしい。

 

 

barbar.hatenablog.jp

 

 

1番の疑問は、なぜ眼に水晶体と硝子体があるのか?ということだ。

 

もっと詳しくいうと、光を屈折させ、硝子体で光の速度を落とす必要があるのか?ということだ。

 

いきなり網膜があってもいいのではなかろうか?

 

わたしは地上に住んでいるためわからないが、深海魚にも水晶体や硝子体があると思う。

 

なんで?

 

 

網膜発電

特質すべきは、網膜の働きだろう。

 

我々は光を網膜を使って感知する。

 

よって、光は網膜が作っていると言えるかもしれない。

 

詳しくは知らないが、網膜は光を電気信号にしている。

 

この構造を応用して、網膜発電はできないのだろうか?

 

いつか考えたいが、「網膜発電」と「光合成」は意外と近いのではないかと想像(妄想)している。

 

もしくは、宇宙全体が網膜の成分で満たされているのではないかと想像(妄想)している。

 

 

今日の考察

ここまで書いておいて、時遅し感があるが、断っておく。

 

この日記は、分数の引き算もままならない文系の妄想日記である。

 

しかし、本気で、かつ自力で相対性理論を思いつこうとしている。

 

相対性理論に明るい方は、「いい線いってる!」「なにをトンチンカンなことを」なとど見守ってほしい。

相対性理論に暗い方は、一緒に考えましょう。

 

相対性理論に「明るい」か「暗い」かというのは、相対性理論の情報量の差であって、相対性理論から受け取れる光の量ではないだろう。

 

 

課題

・光を通すものと、通さないものの違いを考えたい。

 

・ずっと避けていたが、鏡の構造を考えたい。

 

・浮力や引力を理解したい。

 

・いよいよ熱力学と電磁気学を勉強しなければならないかもしれない。

 

・網膜の研究を行いたい。特になぜ光は目に見えるのかを研究する。

 

相対性理論の本を、本当は読みたい。我慢できない。しかし、我慢する。

 

・幸せになりたい。

 

 

最後に

着実に相対性理論に近づいているのではなかろうか?

 

わからないけど。

 

相対性理論を思いついたら、次はなにを目標にしようか?

 

あえて、自力で和菓子でも思いついてみようか?

 

 

本日も読んでいただきありがとうございます。

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ちなみに、相対性理論系のテーマのときは、全く手応えがありません。

多分、需要もありません泣。

電話について〜電話に関する証言集〜

〜言葉の乱れは、言葉の柔軟性である〜

 

目次

 

いやいや、月曜日はしんどいって。

朝からいろんな電話がかかってくるし。

なんやねん。

月曜日から疲れてしまったら、一週間持たんやん。

 

 

 

今日のテーマは「電話」である。

 

 

 

このテーマにした理由は、電話対応をしていた時に、電話の未来に思いを馳せていたからである。

 

 

 

電話とは

「電話とは?」

「電話は、音声通信を使って〜以下略。」

 

定義よりも大切なことがあろう。

 

 

現代社会に電話がなかったら

わたしは歴史を考える時に、その時代の全体を考えるよりも、何か一つの視点で見るのが好きだ。

 

例えば、鎌倉時代の農民の立場で考える時がある。

今日のテーマでいえば、電話である。

当然、鎌倉時代に電話はなかっただろう。

そうなると、電話の代わりに何を使っていたか?

といった具合である。

 

おそらくは手紙であろうが、誰が手紙を届けていたのだろう?

手紙を出して届くまでに、どれほど時間がかかったのだろう?

鎌倉時代に、手紙を書ける(またはよめる)人はどれほどいたのだろう?

京都と鎌倉で、言葉に違いはあったのだろうか?

最終的に、京都と鎌倉のコミュニケーションは、本当に取れていたのだろうか?

といった具合で、話が膨らむ。

 

 

電話ができた時の衝撃

始めて電話ができた時は衝撃でした。

噂で、遠くにいる人と会話をできるとは聞いていました。

しかし、本当に会話ができるのか、心配でした。

料金が高かったものですから、何か詐欺のようなものかとも思いました。

駅にあった電話機から、主人に電話しました。

お弁当を忘れていることをお伝えしました。

本当に便利なものですね。

早急に届けてほしいと言われたので、忘れていった弁当を、電話線にくくりつけました。

無事に届いたのでしょうか。

 

 

携帯電話の台頭

携帯電話を初めて買ってもらった時のことは、今でも覚えています。

当時付き合っていた彼女が、すでに携帯電話を持っていたので、早速番号を交換しました。

毎日、家の固定電話を使って、コソコソと話していたので、自由に話せるようになりました。

毎晩、何時間も電話をしました。

電話代の請求がきて、親に問い詰められました。

それ以降、携帯電話での通話は控えるようにしています。

電話代がもっと安くなればいいのに。

 

 

スマホの進歩

スマホは手放せません。

電車に乗る時は、いつも動画サイトを見ています。

ニュースのチェックも新聞からスマホに切り替えました。

旅行に行くのが好きです。

昔は一眼レフカメラを持っていましたが、スマホのカメラで十分綺麗な写真が撮れるため、今は使っていません。

航空券やホテルの予約もスマホ一つでできるので、便利ですね。

ただ、仕事のメールが毎日届くので、そこだけはネックですね。

電話機能を使ったことは、ないですね。

 

 

コールセンターの栄光

わたしは結婚を機に、働いていた会社を退職しました。

子育ても落ち着いた時、わたしも働きたいと思いました。

たまたまコールセンターの募集があったため、応募しました。

初めて職場に行った時は、オペレーターの数に驚きました。

1フロアに150人はいたと思います。

一人に1台の電話が与えられませした。

コールセンターは9時から17時でしたが、呼び出し音が鳴り止むことはありませんでした。

しんどいこともありましたけれど、やりがいはありました。

とても活気がある時代でした。

数年前に、チャットボックスというものが導入されました。

私たちの負担が減ると説明されました。

当初は着信が減り、時間に余裕ができました。

しかし、150人いた同僚は、1年で10分の1以下になりました。

今までは、電話対応していただいてありがとうという声もありました。

最近では、なんですぐにオペレータに繋がらないんだ、というお怒りの声が増えました。

先日、10年勤めた会社を退職しました。

 

 

電話の未来

今から100年ほど前に、携帯電話という概念がありました。

想像しにくいかもしれませんが、手のひらほどの物理的なデバイスを持っていたということです。

今では、声という個人情報を曝け出すリスクが認識されていますが、当時はAI変換されたものではなく、日常的に自らの声を使っていたようです。

ときには、ビジネスの話も電話という概念を使っていたそうです。

休みの日にも、ビジネスの情報が入ってきたそうです。

今だと、完全に情報基本法違反ですよね。

このときに生まれたのが、情報基本法の前身になったコンプライアンスという概念だそうです。

 

 

最後に

スマホの機能のうち、電話の占める割合は低いのではないか?

 

しかし、カメラやアプリ、SNSなどを取り込むことによって、生活とは切り離せないものになった。

 

紙とペンの代名詞であった、日記や小説を、スマホで書いている人もいるだろう。

 

もはやスマートフォンとはいえないかもしれない。

 

スマホの新しい呼び方を考えてみたいと思う。

 

明日以降にはなるが。

 

今の第一候補は、「もう一人の僕」である。

 

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来週のお題について〜過去のお題から未来のお題を読み解く〜

〜意識を無意識にするのが練習である〜

 

目次

 

今日は朝に8キロ歩いた。

昼は本を読んだり、YouTubeを見たりしていた。

夕方に12キロ歩いた。

一日で20キロも歩いた。

素晴らしいことだ。

夜は、ゴルフの打ちっぱなしに行こうと思う。

 

 

 

今日のテーマは「来週のお題」についてである。

 

 

 

このテーマにした理由は、今週のお題「練習していること」については、水曜日に記載してしまったからである。

 

「卒業したいこと」に引き続き、お題に先行して日記を記載することは2回目である。

 

ならば、来週のお題を先読みしてみようではないかということである。

 

もっとも、今週のお題は「練習していること」と幅が広いため、先行していると言えるかは微妙である。

 

 

過去のお題

わたしはここ4回分のお題しか知らない。

 

「大発見」

「卒業したいこと」

「小さな春見つけた」

「練習していること」

である。

 

 

過去のお題の傾向

傾向と対策には、直前のもの、前年のもの、ここ数年のものが必要である。

お題自体の性質の分析と、現在のトレンドの把握が必要である。

しかし、過去のお題が見つからない(そんなに探していない)ので、直近4回のお題から考察していく。

 

当たり前かもしれないが、お題には、日記にしやすいものが選ばれているのだろう。

間違っても、「概念について考えなさい」などとはならない。

「春を定義しなさい」ともならない。

日常の変化や新たな気づきを思い起こせるようなものが設定されるのだろう。

あっ!そういえば昨日〜となるのが理想かもしれない。

 

そして、その週のトピックとなるようなものも選ばれている。

例えば、卒業シーズンには「卒業したいこと」であるし、春が近づけば「小さな春見つけた」となっている。

 

3月に、「この秋に読んでみたい本」などとなるわけがない。

そうなれば、お題を設定する人が、南半球にいることを想定しなければならない。

 

とはいえ、「金融緩和政策に対する私見を述べよ」などという、重たい話にはならないだろう。

お金に関するお題になるとは考えにくい。

その意味で、最近話題になっている、スポーツ界のスキャンダルについて触れることもないだろう。

 

個人的に気になるのが、『「大」発見』、や『「小さな」春』という形容詞(連体詞?)がつけられている点である。

「卒業の思い出」ではなく「卒業したいもの」と少し捻っていることも気になる。

仮に毎年同じようなお題であれば、このように小さな部分を変化させているかもしれない。

 

昨年のお題がわからないのが、ネックである。

 

 

今週のお題について

今週のお題は「練習していること」であった。

わたしでいえば、「ゴルフ」である。

ゴルフについては、3月20日の日記で記載しているので省略する。

 

ちなみに昨日、日記を書くのを忘れた理由もゴルフである。

 

朝に散歩をして、昼は本を読んで、夕方に散歩をする。

夜ご飯を食べた後、ゴルフに行く。

平日であれば、仕事が終わった後、着替えてゴルフに行く。

風呂に入って、筋トレとストレッチをして寝る。

という流れが、出来上がっていたからである。

 

今まで日記を書くことにあてていた時間をゴルフにあて始めている。

 

由々しき自体である。

 

ちなみに、日記も文章を書く練習である。

 

 

来週のお題の候補について

まずは、来週のトピックである。

お題の発表が何曜日なのか、いまいち把握していないが、大きなものであれば、年度の更新であろう。

「新年度の目標」

「新年度の抱負」

なんかも候補に上がるだろう。

しかし、これらのお題は、新年(1月1日)に設定することが多いように思う。

 

春が本番になるので、

「お花見で食べたいもの」

も有力かもしれない。

 

あまりネガティブなものにならないと思うので、

「あなたの花粉症対策」

とはならないと思う。

 

「あなたの好きな花」

となる可能性は十分にある。

この時期であれば、桜一択か?

 

「おすすめの春ソング」

も考えられる。

わたしは、スピッツの「春の歌」を挙げる。

 

 

来週のお題(推測)

知らない街に住んでみたい!

 

今週のお題は「住んでみたい街」です。

 

4月は出会いと別れの季節ですよね。

進学や転勤などにより、行きたいところに行けた方も、行きたくないところに行った方もいるかと思います。

また、進学も転勤もねーよ!という方の中にも、どこか知らないところに住んでみたい!と思う方がいるかもしれません。

「住んでみたい街」をテーマに、みなさんのエントリーを募集します。

「東京に行って、最先端のおしゃれを取り入れたい」

「大阪に行って、関西弁をマスターしてみたい」

「理由は見つからないけど、群馬に行ってみたい」

など、あなたの「住んでみたい街」を、はてなブログに書いて投稿してください!

ご応募お待ちしております。

 

 

本題について

私の住んでみたい街について。

 

私は、北陸、東京、大阪に住んだことがある。

どこも楽しかった。

それぞれ、生活スタイルが全く違うので、どこも新鮮であった。

 

わたしが今1番住みたいのは、「沖縄」である。

 

沖縄には行ったことがない。

あまり旅行で行きたいとは思わない。

しかし、住んでみて文化を味わってみたいとなると、やはり沖縄である。

おそらく、全く違う文化があるのだろう。

できれば、那覇市以外のところに住んでみたいが、受け入れてもらえるのか?という不安もある。

 

わたしが今1番住みたくないのは、「群馬」である。

理由は特にない。

 

 

最後に

わたしは「群馬」のことをあまり知らない。

 

「群馬」のことをあまり知らない、と認識してから10年以上経つだろう。

 

しかし、現在でも「群馬」のことをあまり知らない。

 

おそらく「群馬」のことを調べようと思わないのだろう。

 

「群馬」のことを調べる前に、なぜ「群馬」を知ろうとしないのかを考える必要がありそうだ。

 

来週のお題は「群馬」かもしれない。

 

先輩は10年ほど、「群馬」で勤務していた。

 

先輩から「群馬」の話を聞いたことは一度もない。

 

本日も読んでいただきありがとうございます。

「群馬」の方には、不快な思いをさせてしまいました。

「群馬」を知らない方は、正直にクリックをお願いします。

今日は投稿を中止します。

今日は投稿を見送ります。

記事が100を超えました。

毎日投稿をして、3ヶ月が経ちました。

今日、投稿を見送る理由は、日記を書くことを忘れていたからです。

ほぼ毎日書いているのに、忘れんのかい!って思いました。

忘れるくらい、日記を書くことが自然だった、とはならないかな。

明日は書こうと思っています。

また、小説を書く訓練回にするか、今思いついた訳のわからないテーマにするか迷ってます。

楽しみにしていただけると嬉しいです。